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鳥羽法皇の目撃した龍
久安三年(1147)七月二十一日条
(『増補史料大成 台記』1─222頁)
廿一日癸未、晴、曉天雨灑、未刻大前雷電、依昨日奉幣歟、
(中略)
(鳥羽法皇)
仰曰、去六月晦日、龍昇天、多見者、奏曰、何以知之、仰曰、天有雲、
其貌似獣尾、其雲昇降、又其日、勧修寺池雲掩、是以知勧修寺池龍昇天、
又仰曰、件池有龍之由、古人伝言云々、(後略)
「書き下し文」
二十一日癸未、晴る、曉天雨灑ぐ、未刻大雨雷電、昨日の奉幣によるか、
(中略)
仰せて曰く、去んぬる六月晦日、龍天に昇る、見る者多し、奏して曰く、何を以て之を知る、仰せて曰く、天雲有り、其の貌獣の尾に似たり、其の雲昇降す、又其の日、勧修寺池を雲掩ふ、是れを以て勧修寺池の龍天に昇るを知る、又仰せて曰く、件の池龍有るの由、古人伝言と云々、(後略)
「解釈」
二十一日癸未、晴れた。明け方に雨が降った。未の刻に大雨が振って雷が鳴った。昨日おこなった祈雨の奉幣のおかげだろうか。
(中略)
鳥羽法皇は「去る六月晦日、龍が天に昇った。見た者は多い」とおっしゃった。私(藤原頼長)は「どうしてそれをご存知になったのですか」と申し上げた。法皇は「天空に雲があって、その形が獣の尻尾に似ていた。その雲は昇ったり降りたりした。またその日、勧修寺池を雲が覆った。そういうわけで、勧修寺池の龍が天に昇ったのを知った」とおっしゃった。また「この池に龍がいるという話は、昔の人の言い伝えだ」とおっしゃった。(後略)
「注釈」
「勧修寺」
─現山科区勧修寺仁王堂町。
亀甲山と号し、真言宗山階派大本山。本尊千手観音。
山科出身の醍醐天皇生母藤原胤子の祖父、宇治郡大領宮道弥益の邸を寺としたのが始まりとされる(勧修寺縁起ほか)。創建の時期には諸説があり、「延喜(醍醐)帝即位御願、自醍醐寺以前建立也」(勧修寺長吏次第)とも、「建立本願、右大臣定方、延喜四年に立る」(雍州府志)とも、醍醐天皇が母后の御願を継承、即位後の昌泰三年(900)胤子の弟右大臣定方に建立せしめたともいう。
「扶桑略記」延喜五年(905)九月二一日条に「以勧修寺、勅為定額寺」とあり、年分度者二人を置き、寺としての地位を確立している。このときの太政官符(類聚三代格)には「贈皇后(胤子)存生之日為令誓護天皇陛下所建立也」とあり、胤子死去は寛平八年(896)であるから、それ以前に建立されていたことになる。延長三年(925)八月には勧修寺で胤子供養の修法が営まれている(「扶桑略記」ほか)。
堂塔の整備については「勧修寺旧記」によると、まず御願堂が胤子によって承俊を行事として建立。塔は承平三年(933)には造立されていたらしく、一重多宝塔で御願堂の東に位置。本堂は南に孫庇のある三間四面の檜皮葺で、「伝云、件堂彼弥益之鷹屋之跡」といい、天喜年中(1053―58)に焼亡。西堂は本堂と同じく孫庇をもつ三間四面の檜皮葺で、右大臣定方の延喜年中(901―923)建立というが、あるいは天徳四年(960)建立の「宮道氏建立堂」がこれにあたるかともいう。ほかにも子院として醍醐天皇御願の灌頂堂、一条天皇御願の薬師堂をもつ宝満院があり、薬師堂落慶供養には藤原頼通も列席している(「御堂関白記」寛弘四年一〇月一〇日条)。また承保三年(1076)供養で、新堂・東円堂をもつ勝福院、本堂・多宝塔・三重塔をもつ宝山院などの存在が知られる(後略、『京都市の地名』平凡社)。
「コメント」
辰年から巳年の変わり目に小ネタをひとつ。
久安三年(1147)に鳥羽法皇が見た龍雲は、このような姿だったのでしょうか。
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2025年の巳年も?、巳年こそは?、良い年になりますように!