【詩】ペトリコール

真夜中のキッチンは、いつもより鈍く光ってるように見える、無自覚に、けれども意図的に残された生活感のなかで。仕舞われていない包丁だとか、洗われていない食器だとか、薄汚れたまな板があるから、まだわたしは確かにこの世界で生きてるんだ、ってそう思える。ほとんどの人が寝静まった午前三時、雨の日に唐突に植物の匂いが沸き立つみたいに、散らばった生活感の中にはわたしの欠片が少しずつ埋まっていて、微かにではあるけれど何かの拍子にわたしの匂いは沸き立って、目には見えないけれど今も確かに存在しているのだと、わたしは、そう信じ込んでいたかったのだった。
けれども、どれだけ散らかっていても、どれだけ多くの食器でシンクが埋まっていても、ねえ、薄まった油の匂いしかしないんだよ。付着した汚れを一瞥して、スポンジで水と一緒に洗い流すと、その匂いすらもあっという間に排水管の奥底に消えてゆくのでした。
甘酸っぱい洗剤の匂いを嗅いで、わたしはその場で嘔吐する。そうして長いあいだ俯きながら吐き続けていたけれど、そのわたしの吐瀉物さえも、一瞬にして薄められ消えてゆくのだ、そこまで強くない水流で、洗剤の白に染まって。チョークも、体育着も、制服のワイシャツも、わけも分からず書かされる書類も、ぼんやりとした蛍光灯も、石鹸も、洗剤も、流されるわたしの吐瀉物も、ぜんぶがぜんぶ白。そのとき、キッチンには雨が降らないらしいよ、って昔誰かが言っていたのを思い出して、そんなの当たり前だろうって、この人はいったい何を言ってるんだろうって、そう思っていたあのときの自分を、わたしはナイフで刺し殺してしまいたいと思った。
わたしが吐いたはずの吐瀉物は、すべて綺麗さっぱり流れてしまって、泡と一緒に消えてしまって、つまりそれは、生活は消えてゆくためにあるのだと、その事実を、わたしが受け入れなければいけないということなのだけれど、でもわたしはどうしてもそう思いたくはなくて、目を瞑った。わずかに残った吐瀉物の匂いを嗅いで、その匂いもきっと、あとわずかで消えてしまうだろうけど、今さっき覚えた漢字を忘れないようにするみたいに頭のなかでひたすら反復して、覚えた数式を必死で空に起こすみたいに思い起こして、わたし、ひとり、雨の降らないキッチンで。


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