流行りの作品は時代の鏡か

アメリカのヒーロー映画はほとんど白人が主人公だった。

黒人のヒーローにブラックパンサーがいるが、身内同士ので終始争っている印象だった。ラスボス戦は黒人同士で戦っていた。

僕の勝手な想像なのだが、敵が白人だと社会問題になるのではないかと思う。

作品というのは、常識や多数派の価値観が反映されている。

最近は映画やゲームなどで、少数派の主張が目立つようになった。
どこから来たのかは分からないが、大衆を巻き込んで、価値観を刷り込んでいることに変わりはない。
主にアメリカでその運動は盛んだ。最近だとディズニー作品で、虐げられていた属性側が、猛プッシュされている。

この流れはアメリカだけではなく、日本でも起きている。芥川賞を受賞した《ハンチバック》。

当事者本人が書いたという事で話題になっている、らしい。僕には無理やり作られた流行りにしか思えないが。

世の中にとって関心のある事だから、選ばれる。

まさに《時代に選ばれた》という事だろう。

音楽にはよくある話だ。

高度経済成長期のモーレツ時代に虐げられて辛いという心情を表す歌詞共感され流行った《およげたいやきくん》や、競争社会に疲れた日本人達を肯定した《世界で一つだけの花》。

文学界、特に芥川賞はそれが顕著だと感じる。

ハンチバックやディズニー映画もそうなのだが、誰が決めたのか分からないにしても不自然だ。

作品が評価されているというより、作家本人が評価されている。

作品はオマケで、作家がメイン。

ひと昔前の秋元商法を思い出した。
CDはついでで、CDについている握手や投票がメイン。

CDの曲は握手する女の子が歌わないと価値が出ない。
同じ曲でも握手券を付けない、または可愛い女の子が歌わないなら、曲は人気にならない。

結局、純文学の冠を被ったビジネスということだ。
芥川龍之介が生き返って、今の文学界の状況を知ったら、再度自殺すると思う。
芥川龍之介本人は、これも自分の勝手な想像なのだが、世間に評価されようとか、金にしようとは思っていなかったと思う。
世間に評価されようと思うにしては作風が暗すぎるし、哲学的過ぎるため買う人もいなさそうだ。

純文学というのは見返りを求めないからこそ純文学なのだ。
「金になる」
「評価される」
というのは不純文学だ。
もちろん世の中に影響を与えようとする政治的な思想がセットでも不純になる。
下心があるからだ。

最近の受賞作や受賞作家を見る限り、社会問題の改善をしようという思惑が露骨だ。
上に芥川賞作家のリンクを貼ったが、全員が女性とのこと。
確かに性別で作品が差別されるようなことがあってはならない。 
しかし優遇されるようなこともあってはならないと思う。
どうしてこう丁度いいさじ加減が出来ないのだろうか。
「女性が抑圧されているから平等に!」
ならば分かるし、それは望ましいことだと思う。
ただ、リンクの内容は
「女性が抑圧されているから女性を優遇しよう!」
という勢いだ。

なぜ全員が女性なのか。
人間本人の属性や、性別で作品の価値が決まるならそれこそ差別ではないのか。
抑圧されていた側にブーストをかけすぎて、今度はそうではない側を抑圧している。

全員女性候補の回で落選したが、素晴らしい作品を書いた屈強な、強者男性を不当に差別しているのではないか。女性属性バフという作品以外のところで評価されたらたまったものではない。

まあ、審査員の政治思想なのだろうが。
いつだって時代の流れは上の人間が無理やり作るものなのだろう。

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