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心とはどんなものか~川を眺めて考察する

自宅から徒歩5分足らずの場所にある、綺麗な川原。
朝からそこをぼーっと散歩したり岩に座ってただ川の流れを眺めることが、最近の私の日課。

鼻をすうっと通る冬のからっとした空気に、のどかな鳥のさえずり。
そんな爽やかな川原で眺める川の水は、癒しそのもの。

自然は好きですが、その中でも水の動きを眺めるのが特に大好きなんです。いくら見ていても飽きないので、1時間でも2時間でもいられます。
すると、ふと思うことがあるのです。
「心って、川の流れの様なものなんじゃないか?」と。

今日は、そんな心と川の流れの共通点を共有します。
私は心の専門家でもない一般人なので、あくまでもイメージの話としてお聞きください🍀

混沌が織りなす秩序

川の流れを大きく捉えると、ある程度の規則性がありますよね?
・上流から下流に向かって流れること
・強い水流が途中で岩にぶつかるとき、大量の泡が発生すると同時に流れの進路が変わること
・向きや速さに違いのある流れ同士がぶつかるところに、渦が生まれること
などなど・・・

しかし、細やかなゆらぎは全く予想できません。
砂場に打ち寄せる小さな波のパターンも、渦の発生するタイミングも、泡の発生位置や消えるまでの時間も。
でもそんな予想できないゆらぎの集合体が、規則性のある大局的な流れです。


バラバラで予想のつかない複雑な「混沌」が、ある程度決まった大局的な「秩序」を織り成すのです。
混沌で構成された秩序は、形はあるけど硬くはない、柔らかな流れを実現する。



その「混沌」すらも実際は物理法則に従っているため超高性能なコンピューターで計算することはできそうですが、私たちの眼には細やかな動きが完全なランダムに見えます。
物理法則に従いながらも単純なパターンにはならない。
形は持ちながらも、複雑性と柔らかさを兼ね備えているのです。
なんだか、ちょっとプリンみたいですね。


実は人間の心も、そんなものなんじゃないでしょうか?


人間に自由意思は存在するか。
長年議論されてきたテーマです。
自由意思を「どんな法則にも縛られないもの」と定義すると、それは論理法則(同一律、矛盾律、排中律)にも従わないことになり自由意思の存在自体が矛盾してしまいます。この考え方では、自由意思はない、ということになります。これを聞くと、「自分は自由じゃないんだ。常に縛られているんだ。」というニュアンスで解釈してしまうかも。
しかし本当に「何らかの法則に縛られること」は”不自由”なのでしょうか?


先ほどの川の流れを思い出してください。
川の流れは物理法則に従いながらも、複雑性とあそび(自由度)、柔らかさを備えています。
砂浜の波もそうです。
波の打ち寄せるパターンはどんなものか、次の次の波はどんな強さなのか、ずっと見ていても全然わかりません。
あの予想できないゆらぎを見ると、波が「縛られている」とは感じません。
むしろ、全てから解放された究極の自由を感じさせてくれます。
川の流れや海の波を眺めて癒される人々は、それらの自由さに癒されていると言っても過言ではないでしょう。私が水の動きが大好きな理由も、ここにあるはず。



確かに、人間の大まかな心の動きは大体決まってるのかもしれません。
こういう出来事があるとこう感じる、というある程度の規則性はあります。
個々人の遺伝子や育った環境、経験、記憶、そういった要素も計算に加えると、もっと高確率でその人の感じることを言い当てることはできるでしょう。しかし、微細な心の動きにはゆらぎや自由度があり、大局的な心の動きも完全には予想できないのです。
混沌(ゆらぎ)の多重な重ね合わせが秩序(規則性)なのだとすれば、最終的に出来上がる心の輪郭はふわふわと柔らかい、ということなのかもしれませんね。

混沌が重なる大局ほど秩序の度合いが強くなり、重なりが少ない細部や輪郭ほど混沌の度合いが強くて自由にゆらいでいる、といったイメージでしょうか?
まるで、大河の流れがどっしりとした秩序を持ちながらも、その表面に小さな波や渦が生まれて自由に揺らいでいるのと同じようです。



まとめ

以上、私が川の流れを眺めているときに感じたことでした。
この喩えが正確かどうかはわかりません。
単なる素人の思い付きですから、どこかおかしいところもあるはず。
でも、心の描写法としては面白いのではないでしょうか?

自由意思は存在しない、という考え方は、解釈によってそれが与える印象ががらっと変わります。


「運命は決まっていて、どう足掻こうとそれは変えられない」
「人間はロボットの様なものだ」



このように自由意思の不在を解釈してしまえば、冷たく感じる。
しかし私は、自由意思が存在しないことは全く冷たいことではないと思うのです。
川や波、木の葉のそよぎのように(逆説的ですが)自由で、美しい。
心とは、神様が授けた特別なものではありません。



法則には従っているけれども自由な、美しい自然現象。
他の自然現象と共に、相互に作用しながらひとつの音楽を奏でる調和的な存在。
それが、自由意思がないからこそ自由な私たちなのではないでしょうか?




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