「僕は傷ついている」と、言いたい。桔梗
前置き
明日の診察を「いかにしてサボるか」に思考を全力投入しているが分からん。
最早主治医の声がホールから聞こえてくるだけで、今までの主治医の言動がフラバして、自己否定に駆られるレベルに追い込まれているのに。
それも、医者にだ、本来ならば、病に苦しむ人間を救おうと心血を注ぐ人間だろう。
曲がりなりにも、僕も「病人」だ。それも、かなり厄介な複数の疾患を抱えた人間だ。
だからこそ、このクソみたいな環境にいさせられている。
医者なら、間違っても『「自分の治療(問診/手技etc)」で患者の容態を悪化させる』なんてことは望まないだろう。
恐らくだが、主治医は無意識のうちに、「患者である僕の病態を悪化させる」言動をしている。
精神科であることの特殊性
こと、精神科という言葉を主軸に置いた科において、細心の注意を払うべき言葉を用いて。
例えるならば、主治医の行為は、
「外科医がガーゼの回収を忘れてクローズすること」
「麻酔科医が麻酔管理を満足に行えないこと」
と同義だと思う。
だが、この2つの例えと精神科には、大きな違いがある。
それは、「ミスの原因が目に見えるか否か」である。
「外科ならば、使用ガーゼと回収ガーゼの枚数が合わない」、「麻酔科ならば、バイタルの乱れ」など、ミスの原因が確実に目に見えた形で現れる。
しかし、精神科は、その唯一の例外である。
ミスとして現れる結果は、不穏などの精神的な不安定さ、自傷や無断キャンセルなどの問題行動など、その全てが「原因が目に見えない」のだ。
その原因は、もしかしたら、患者側の要因かも知れない。
だが、一方で、医療者側の無意識の言動であることも考えられる。
そしてその原因は全て推測の域を出ない。
言わば、悪魔の証明だ。
原因が目に見えない病を抱えるということ。そして、その治療を受けるということ。
原因が目に見えないということは、殊更、「医療者側に原因を患者に帰属させることが容易になる」ということでもある。
現に、僕らの身体に現れている失立失歩などは、主治医に言わせれば全て「無意識の思い込みで病名に当てはまる症状を創造している」との言われようだ。
そして、帰る場所がクソみたいな実家と病棟の2択しかない原因も、「どの人格であろうとODして病院に電話かけてきて救急搬送されてきた自己責任」との言われよう。
もう分かるだろう。
悪化した原因を目に見える形で証明できないが故に、「全て患者であるお前らのせいで、医療者側は何も悪くない」と言えてしまうのだ。
だから、僕は悪魔の証明への抵抗として、知識を身につけることにしたのに。
元々、大学時代は(まあ、辞めてしまったが)、精神医学系の講座と臨床心理学の講座は特に熱心に取り組んできた人間だ。そもそもの知識ベースは、一般の方よりも持っていると自負している。そこに、自分の知識の穴を埋めるかのように、専門書や信頼できるサイト、信頼性の高い論文の数々を読み漁り、知識を補完することで、「無意識の言動で傷を作る主治医に対抗しよう」とした。
だが、結果として裏目に出た。
①一般的な患者の知識を凌駕する専門的な知識
②無駄に弁が立ち、突かれたくない所を的確に突くことで相手に勝つ僕の性格
この2つは、主治医の無駄に高いプライドを傷つけるには十分だったようで。
温厚だった主治医は、話し方は温厚なまま、診察回数が増えるたびに、その言葉自体のナイフを鋭く研ぎ澄ましていった。
その結果が、
「おまえ」「あんた」「てめえ」など、名前を呼ばないこと。(隣のベットの方も同じ主治医だが、一度もそんな呼び方をしたのを聞いたことはない)
「萩 雪希」という人間の存在の否定に他ならない。
そして、前述した、
①「無意識の思い込みで病名に当てはまる症状を創造している」
②「どの人格であろうとODして病院に電話かけてきて救急搬送されてきた自己責任」
との苦し紛れの発言に繋がる。
しかし、この2つの発言は、潰そうと思えば…というか、精神病理に造詣があまり深くなくても、変換症とDIDに対して一般的な(それこそ厚労省のサイトレベルの)知識があれば、一般人でも反論どころか容易く潰せてしまうのだ。
①は、無意識下の心の辛さが身体に変換され現れる病態が変換症であること。
②は、人格のコントロールを行うことの困難さを持つこともDIDの主要症状ということ。
このように、ペラペラと専門用語を並べ立てなくとも、容易く反撃を打てるのだ。
時として、知識は立派な武器となるのだが、反面、使い所を間違えば、何倍もの理不尽な反撃が待っている。
対抗策がない。
本来ならばあってはならない『「自分の治療(問診/手技etc)」で患者の容態を悪化させる』ということが、主治医の言葉により、実際に起きてしまっている今。
正直、主治医の変更を行えば済む話だろうが、他の医師に診てもらっていた時期に無理解な発言があったために、その一手が打てない。
そのうえ、医療体制が脆弱な土地柄ということもあって転院も出来ない。
だから、僕は明日に怯える。
明日、4/8は診察日だ。外来なら適当な理由でサボることができたとしても、入院しているために向こうからやってくるために逃げられない。
傷つくと分かっているのに、逃げ場がないというのは、想像以上に心を蝕んでいく。
実際、毎日なにかしらのフラバはあるし、人間不信は悪化の一途を辿り、変換症は改善の見込みがない。
傷つくと痛みがあると分かっているのに、避けられない。
本来なら、癒されるための医療に、明日も僕らは傷つけられるのだ。
癒しは与えられず、ただただ無情に傷が与えられるのみの明日。
このまま、夜が明けてくれるなと願うのだ。
何故なら、僕の怒りをぶつけることなど出来ないからだ。それでも、「僕は傷ついている」と、言いたい。
それが叶わないから、夜が明けてくれるなと願うのだ。
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