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島村楽器のコミュニティ形成から、本屋のあり方を妄想する。


バイオリンを習い始めたのは社会人一年目、新卒の頃からで、レッスンに通ったり、先生を変えたり、個人練習したりしながら、今は島村楽器に通っている。

これまで2人の指導者から習ってきた。
ヤマハ大人のミュージックサロンと個人のバイオリン教室を経て、島村楽器に通っている。
その体験から比べてみると、島村楽器ってコミュニティ形成力が半端ないのだ。

そこで島村楽器のコミュニティ形成力を本屋に持ち込んだら、もっと本屋が面白いものになるんじゃないか…?そんなことを妄想してみた。




島村楽器は、コミュニティ形成にガチ


それというのも、レッスン室の待合席で、よく目につくのだ。
アマチュアオーケストラの案内から、公式の生徒の演奏会や指導者の演奏公演のお知らせ、ブルーノートなどのプレミア演奏会まで…その告知が幅広くて驚いてしまうのだ。

さらには、島村楽器アプリもあって、上記の紙媒体の情報をアプリ上でも確認できるし、日々の練習を記録することもできるのだ。


島村楽器の音楽日記アプリ


録音やストップウォッチ機能などがあり、公開や非公開を選ぶことができる。
自分は、アナログ派なので練習ノートを書いているため使用していないが、公開したら指導者からコメントとかがもらえるのかもしれない。

もちろん、島村楽器の月謝は、他の音楽教室と比べて高いクラスだ。
今まででも一番高い。この間、値上がりしたしね。

けれど、この月謝でここまで生徒にホスピタリティを発揮するのは、島村楽器が音楽を継続するために、コミュニティの重要性を重視しているからなのだと感じてしょうがないのだ。


はじめてはヤマハ大人のミュージックサロン

バイオリンを習い始めたのは、ヤマハの音楽教室だった。

レッスン費用が安いというのがいちばんの決め手だったし、分かるより慣れろタイプの指導者だったから、臆せず続けることができた。

今思えばなるほどと納得しかないのだが、
ヤマハなのにバイオリンを購入しなかったのだ
指導者にバイオリンを買うなら目黒の工房と連れて行ってもらって、
長く続けるならこれくらいのクラスと選んでくれて、1ヶ月分の給料を払った。

バイオリンをやってない人からは鴨にされたんだろとか言われたが、
実際バイオリンは中国製とはいえ、メンテナンスに持っていくと「いいバイオリンですね」と言われたりする。
高いものを買った分、バイオリンへの愛はひとしお。今でも大切に使っている。


しかし、なぜこの時、指導者はヤマハで生徒にバイオリンを買わせなかったのだろう?

それは、ヤマハと音楽教室、そして指導者の関係性にあるのだろう。

当時、音楽教室のある雑居ビルに行くと、ヤマハ〇〇〇〇音楽教室とヤマハの後に別の呼称がくっついていた。
雑居ビルの名前?と簡単に思ってたけど、これはヤマハの音楽教室を運営する地元企業名だった。


そう、ヤマハの音楽教室は、フランチャイズ運営であるのだ。
思い返せば、雑居ビルには楽器は販売されてなかった。あくまでも音楽教室なのだ。


そして、指導者との関係性。
定期演奏会などの催し物を、指導者はたびたび地域のコミュニティセンターなどで行なっていた。ピアノの伴奏者なども自分でセッティングしていて、苦労話(学生ピアノ奏者の当たり外れ)を聞かされたりした。

これが島村楽器なら…と考えると手厚くイベント会場からサポートメンバーまで取り揃えてお膳立てしてくれそうである。

調べてみると、ヤマハと指導者の関係は、直接雇用でなく、指導に関しての契約社員的なものらしい。故に、楽器を買わせなくてもいいのだ。

反対に、島村楽器については、指導者は正社員であることが多いようだ。それが教室での音楽活動のクオリティーを支えているのかもしれない。


コミュニティを重要視するか、しないかの違いが、ここに現れている気がしている

個人の指導者にもならなったことがあるが、やはりどうしても、指導者は音楽のプロなのであって、イベントやコミュニティ形成のプロではなかったと振り返ってみて思う。


どういうふうに生徒同士をコミットさせて、モチベーションを高めさせ、継続的に活動していくか。それを考えて実践しているのが、島村楽器なのだ。



もし本屋がコミュニティを重視したら?


島村楽器がすごいなぁ、さすがだなぁと行くたびに惚れ惚れしてしまうのは、
それ以上に大好きな本屋もこうなったらいいのではと思ってやまないからだ。

島村楽器が楽器を売るだけでなく、コミュニティの維持に力を入れているのは、
そもそもがヤマハの音楽教室からスタートして、生徒側からの要望で楽器を販売しはじめたという歴史からきているようだ。


これまで、本屋はどう読み手と繋がってきたのだろうか?


近代の本屋は、雑誌を中心にした販売ネットワークを構築し、大衆読者を獲得、出版業へと発展していった。

現代では、頼みの綱であった雑誌が売れなくなり、街の本屋は消えていくばかりだ。


ただモノ売りから、コト売りへと耳にタコができるくらい聞いてるけれど、依然として街の本屋は変わらないままだ。



『本を読んだことのない32歳が、はじめて本を読む』が流行っていることから、読み解ける気がしている。


読書創作界隈の感想をたまたまみて、驚いてしまった。

本を読まない人が、こんなふうに読めていて羨ましい!(意訳)


ゾワゾワしてしまった。つくづく、本読み、物書きというのはなんて傲慢…なのか?
自分も趣味で文章書いているとはいえ、ある種の段階のあわいグラデーションには会話すらままならないものをヒリヒリと感じる。


本を読まない人が感動して読んでいるから共感されているのではないだろう。


本を読む、行為そのものが肉薄して伝わってくる。喜怒哀楽、感情の発露。そのライブ感を皆、楽しんでいるのだ


ふっくらすずめクラブ、あのメンバーで、ずっと見たかったよ…!


本屋に必要なのは、読み手と書き手、双方をつなぐコミュニティから得られる、ライブ感なのではないだろうか?

神保町のPassageに代表される、棚貸本屋が人気を博して、ちまたで流行る読書会や、文学フリマやZINEフェスなのが勢いをつけているのに、今後本屋はどういう場所になっていくのだろうか?



読書ってなんだっけ?


そもそも、読書というのは、輪読や音読などの声を通じて話を共有し、感想を共有しあうものであったのに、
それが近代になって、1人で読む「黙読」習慣となって、次第に立ち位置が変わってしまった。

この辺の詳しい記述って、もっとあるんだろうけど、断片的にしか追えてません…。もっと読みたいなー


近代以降〜の話はこの辺が面白かった👇


小田光雄『書店の近代』っていう本も面白いんだけど、中古でも今のところないようだ。


紹介されている話でおもしろかったのは、

田山花袋、実は明治期からの出版、書店、貸本、古本業界に詳しかったというエピソード。
そんな田山花袋が、鉄道を舞台にした小説を書いたのもなんか繋がってくる。




鉄道の発達によって、音読から黙読に変わっていったという説も👇
あの狭い空間で音読されたらいやだもんね…


ほかにオススメの本があったら教えてください✋



ここからは、妄想と余談

本屋が大衆を握れなくなり、大衆は個人で出版も売り出しも実現し、コミュニティを拡大している。

湧き上がるライブ感を、どう本屋が演出していくか? 生をリアルをどう伝えていくか? 本屋に人を集めコミュニティとして維持するか?

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