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辞書はどのようにして作られるのか(中学生からのおススメ本を読んでます)

noteの中学生ライターの記事に影響されて、いま『博士と狂人』(原題:The Surgeon of Crowthorne/クローソンの外科医)という本を読んでいます。OED(オックスフォード英語大辞典)がどのようにして生まれ編纂(へんさん)されたのか、を記した1998年出版(日本語版は1999年、早川書房)のノンフィクションです。(メル・ギブソンとショーン・ペン主演で、この本を原作とする映画も作られた模様:2019年)
*タイトル画像:『博士と狂人』より(作者不明:原著にもクレジットなし)

日本語の副題は「世界最高の辞書OEDの誕生秘話」ですが、原題(オリジナルの英国版)の副題は「A Tale of Murder, Madness and the Love of Words(殺人と狂気と言葉への愛の物語)」。(アメリカ版はタイトル、副題ともに違うようです)

OEDの編纂には二人の人物が重要な役割を果たしたそうで、その二人の辞書編纂をめぐる長期にわたるやりとり(言葉をめぐる、そして編纂をめぐる)が大きな軸であり、読者の興味を惹きつける要因になっていると思われます(現時点ではまだ読書半ばなので)。が、そこにたどり着くまでが長い。二人の来歴の詳細と辞書というものがどのようにして生まれ、作られてきたのか、という過去に遡った長い歴史が語られます。

この評伝は、ある意味、辞書の歴史を綴ったものであり、辞書とは何かを解明したものでもあります。

この本の特徴として、各章の扉ページには、英単語が一つずつ取り上げられ(たとえばMysterious、Murderなど)、11世紀以前、12世紀、13世紀…..と過去の語形やスコットランド語、ゴート語、チュートン語、アイルランド語、古期高地ドイツ語、ギリシア語…..などの語形変化や語源がたっぷり記されています。(OEDから採録したものを日本語訳して載せている:例 ↓)

『博士と狂人』の扉ページ 「Poor」が取り上げられている

このページを見たとき、中学生あなどれない、と思いました。これを面白いと思って読むのか、いまの中学生は。と。好奇心も十分ですが、教養の度合いが大人レベルです。っていうか、子どもとか大人とか言ってる場合じゃないですね。わたしはその中学生ライターからぜひと薦められて、この本を手にとったのですが、それもあってこのような意味深い本だとわかり、なおいっそう感慨深いです。完読します!

わたし自身の辞書や言葉への興味を言えば、日々、翻訳作業をしているので、辞書は必須のツールです。辞書なしでは何もできない。英語 → 日本語、に加えて、最近、久々に日本語 → 英語の翻訳も始めたので、なおのこと辞書の重要性、ありがたみが身に沁みています。
と同時に、辞書だけではどうにもならない、という経験もあるのですが。

『博士と巨人』の内容について、気づいたポイントをいくつかあげてみます。ミステリーめいたところもある本なので、そこには触れず、それ以外のことを書きます。

冒頭でも書いたとおり、辞書編纂の中心人物は二人いて(一人はイギリス人学者、もう一人はアメリカ人元陸軍将校、外科医、そして…)、辞書編纂を長期にわたって共同作業するのですが、その間の連絡方法は手紙のみ。時代が19世紀後半だったとしても、(ある事情から)近くに住んでいたにも関わらず、何十年と顔を合わせることなく一緒に仕事していました。作業用のカード類などの書類は、郵便小包で送られていました。郵便という「古い通信手段」であることを除けば、既存のネットワークを利用しての共同作業というのは、現代のリモートワークを思い起こさせます。(最終的に、二人は顔を合わせることになりますが)

OEDがそれまでの他の辞書と違っていたのは編纂の方針で、一つ一つの語句の解説として、「用例」を徹底的に集めて、その語句が実際にどのように使用されていたかを示そうとしたこと。印刷物(書籍、新聞など)やその他の記録から、ある語句の使用例を集め、それが何世紀もの間にどう使われてきたか見ることで、語句のもつニュアンスや発音の微妙な変化を示していくという方法のようです。これを徹底して行なうために、「多くの人々の協力」が必要となり、ボランティアを広く募集することになります。そしてそのボランティアに応募してきたのが、中心人物の一人であるアメリカ人の元陸軍将校でした。もう一人の中心人物である学者の方は、OED編纂の側の人でした。

用例主義あるいは実例主義とも言えるこの辞書の基本思想は、「新しい大辞典はそれ自体が民主的な作品でなければならず(中略)、誰もが、辞典に管理された厳格な規則に従うことなく、好きな言葉を自由に使えるのだという考え方を、身をもって示すものでなければならないのである」と、大辞典編纂スタート時の1857年に、リチャード・トレンチという人物によって宣言されました。(辞書の編纂作業が実際にはじまったのは、その22年後)

OEDの用例主義という考え方は面白いと思いました。言葉というのは実際、固定的なものではなく、人々に使われていく中で変化もします。何が正しいか、とか正統とすべき意味は何か、ということ以上に、実際の変化に注目していく方針は、現代の考え方に通じるものがあります。

OEDの辞書がどんなものか、オンライン版を見てみることにしました。たとえば「settler」という言葉。先々週の記事の中で、その意味を狭く捉えすぎていたために、英語原文の理解が進まなかった話を書きました。OEDでこの言葉を引いてみると、「Lemma(見出し語)」に120の例文が出てきます。
たとえば

1745年
But is not almost every..Man or Woman that has a Tongue, a Politician, a Settler of the State ?
(しかし、舌を持つ男女のほとんどが政治家であり、国家の入植者ではないか? DeepL翻訳)
(出典)J. Wesley, 'Farther Appeal'
1826年
He fancied himself a settler of destinies.
(彼は自分自身を運命の開拓者だと思い込んでいた。DeepL翻訳)
(出典)New Monthly Magazine
2022年
A petty settler of personal scores.
(個人的な利益を追求するつまらない人。Google翻訳)
(出典)Independent

OEDウェブサイトより

このページの左サイドに「AUTHOR」という欄があり、チェックマークを入れると、該当する著者の例文がソートされて出てきます。Robert Southeyというイギリスの詩人にチェックを入れると、「settler」に関する二つの用例(1809年、1829年)が登録されてました。

このネット版OEDは、使いようによっては言葉遊びや語句の歴史を知るいいツールになるかもしれません。英語の勉強にもなりそう。

ここでふと思い出したのが、日本の国語辞典の中で、面白いと評判になったことのある新明解国語辞典。版元の三省堂は「日本で一番売れている国語辞典」と言ってるとか。わたしは第何版だったか、中身を調べるために古書で購入したことがあります(いま、書棚を探したけれど見つからない….あるのは確かなんだが)。

この新明解の中で、ユニークな解釈だとネットでよく取り上げられる語句として「動物園」があります。

新明解国語辞典 第四版 の語釈
「動物園」
生態を公衆に見せ、かたわらに保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。
新明解国語辞典 第八版 の語釈
「動物園」
捕らえて来た動物を、人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として一般に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設。

サイト「学び部」より

第4版と第8版で大きく解釈が違っているのは、外部から申し出や提案、非難などがあったのかもしれません。わたしが購入したのは多分第4版かそのあたりのものだと思います。

三省堂のオフィシャルサイトでは、新明解を「深い思索の産物としてのシャープな語釈」と言っています。

が、しかし、わたしは購入した同じ版で、「水族館」を引いてみて驚きました。そこにあったのは、まったく「常識的」な範囲内の、動物福祉的な視点をまったく持たない語句の解釈でした。

これを見て、辞書というのは一つ一つの語句の解釈も大事だけれど、一貫した思想のもと、全体を俯瞰して作らないと文献としての価値が落ちる、と思いました。「水族館」の解釈を見たあとでは、「動物園」の解釈だけが突出して、ある意味「過激」な説明になっているのは変だと感じました。なぜこんなことになったのか?

第4版の「動物園」の解釈も、この説明でいいのかどうか、ちょっと疑問です。動物福祉的な視点から書くのはいいと思いますが、感情的な非難口調ではなく、もっと普通のフラットな言葉で書くべきでは?と。おそらく第8版はそのあたりを修正したのでしょう。

辞書というのは、その辞書を頼りにしていいのかという「信頼」が大事だと思います。辞書によって傾向や特徴が違うのは(それを理解した上で使うので)構わないですが、一つの辞書の中で、あまりに違う視点からの語句説明があるのはよくないです。

OEDにしても、けっして完璧なわけではなく、「性差別や人種差別が見られる点、そして時代遅れの気難しい尊大な姿勢があらわれている」(『博士と狂人』)という見方が近年の学者たちから出ているそうです。この本の著者サイモン・ウィンチェスターは、この辞典が大規模で常に参照されるものであることから、今後も多くの批判を受けるだろうと書いています。とはいえ、文献としてのすばらしさ、辞典編纂における学識の深さには多くの人が驚嘆し、ずっと大切にしたい書物と思うだろう、とも。

辞書は使うばかりで、どのように作られたのか、あまり考えてこなかったですが、『博士と狂人』を読んだあとでは、もう少し、それぞれの辞書の「真意」も汲みながら読んでいくと面白いかもしれない、そう感じています。

あ、AIに辞書を作らせたら、どんなものに仕上がるか。「これはAIが自動生成したもので、語句の解釈に間違いがある場合があります」と断ったうえで、人間が手を入れない辞書、見てみたい気がします。笑えるものとかありそう。

実は辞書、けっこうな数もっています。中学生のときに年上のいとこから贈られた英英辞典にはじまり、スペイン語を勉強していたとき買った西和辞典、コピーライター時代にネーミングのヒントを探すために揃えたフランス語やイタリア語の小辞典、エイモス・チュツオーラの作品を訳す際に買った分厚いヨルバ語・英語辞典(いまは浅漬けの重しに重宝)などなど、いろいろです。
あと特殊なものとして『Baker's Biographical Dictionary of Musicians』という超デカ分厚い音楽家大辞典(1155ページ)をもっています。重さにして5、6kgはありそうです。海外の古書店で買いました。何かを見るために買ったと思いますが、その何かは忘れました。これは評伝集とも言えるもので、一人一人の解説は短いですが、ちょっとした読み物にもなります。日本人では武満徹とかオノ・ヨーコが載っています。クラシック界の作曲家や演奏家が中心ですが、オノ・ヨーコの欄には「日本生まれのアメリカ人ヴォーカリスト、ソングライター、パフォーマンス・アーティスト」とありました。ニコラス・スロニムスキーという音楽評論家が編纂したもので、わたしが持っているのは1993年の第8版です。

一番下が音楽家大辞典(判型が20X25cmくらい)

辞書については以上です。
ところで『博士と狂人』を薦めてくれたのが中学生と書きましたが、中学生ってすごいですね。昔からそうだったのか、いまだからなのか、わかりませんが。今年の星新一賞ジュニア部門の受賞作品を読んでいて、おお、と感心しています。

noteでも記事を書いている「日本中学生新聞」主宰者の川中だいじさんのシリーズレポ『「アイヌ民族」と「アイヌの人々」』①②③を読みましたけれど、まっとうなジャーナリストとして探求心あふれる中学2年生で、う〜ん、大人と日本社会しっかりしてくれーっと思いましたね。
日本の先住民族である「アイヌ」の呼称について、中学で使用されている教科書をめぐっての調査を展開しています。

これを書き終わった、というか最終推敲の前日に『博士と狂人』読み終わりました。読んで損はない面白い本でした。精神疾患をもつ人が、普通の人以上の集中力と粘り強さで意味ある重要な仕事ができる、と知ったことも大きかったです。


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