不味い蜜柑 ③
夫婦は支え合ってこそ幸せに生きられるということを、目の前で私に体現して見せた祖父母。その片割れを失った祖母は、以来、みるみる衰えて行った。祖母一人ではできないし、息子である叔父も仕事が忙しくて跡を引き継ぐ余裕がないという事情から、みかん畑の木々は処分されることになる。本当は私が引き継ぎたいくらいであった。しかし週に一度でも通うには遠すぎるし、そもそも叔父の嫁が歓迎しない。知識がないうえ、再々手を掛けられない者が継ぐにはハードルが高すぎる。当たり前だが、簡単に考えてはいけないのだった。
そのまま放置してはいけないのかと本気で思った。まめに世話は出来ないが、放っておいてもある程度実は付くのではないか…と。しかし作り手のいない畑は処分しなければならない決まりなのだと言う。猪が山を荒らす原因にもなるらしい。生きているものを処分しなければならない。しかも数十年、丹精込めて作った生きものである。悲しくて仕方がなかった。
祖父母のみかんは評判が良く、送られてきたものを懇意にしている友人知人におすそ分けする度、喜ばれた。みかんがそれほど好きではないという人でさえ、祖父母のみかんならいくらでも食べられると言ってくれた。
翌年から我が家では、みかんは〝買うもの〟に変わった。叔父が買った物を送ってくれるようにもなった。そうなって十年が過ぎるが、未だ、祖父母の作ったみかんと同じ味には出合えていない。近いと思えるものすらないのである。
みかんって、こんなに味が違うのか…と不思議に思うほど、違うのである。
昔、「私の体の血はワインで出来ている」と言うようなことを言ったワイン好きの女優さんがいたが、「私の体の血はみかん果汁で出来ている」と私なら言える。みかんの食べ過ぎで…というのが本当かどうかわからないが、冬場は手の平も足の裏も、更には口の周りも、黄疸かと心配するほど毎年黄色くなる。祖父母のみかんが口に入らなくなって、そうなることはなくなったが、やはりみかんシーズンにみかんは欠かせず、あちらこちらで手に入れては、祖父母のそれと比べて、あぁでもないこぅでもないと品評するのが通例化している。
大方、論点は〝酸っぱい〟〝甘いだけ〟〝味が薄い〟〝皮が厚すぎる〟〝薄皮がごつい〟などであるが、今年初めて〝不味い〟が加わった。体内の血がみかん果汁になったと錯覚するほど、数十年間みかんを食べ続けてきたが、〝不味い〟は初めて。そもそもみかんが不味いってことがあるのか?と、自分自身が一番驚いた。
〝酸っぱい〟でもなく、〝薄い〟でもない〝不味い〟。口にした途端、母と顔を見合せた。
「なんかこのみかん…不味いな…」
他に形容のしようがなかった。
最早どこで買った物かもわからない。美味しかったらまたその店で買おう!と記憶に残るのだが、酸っぱいやら味が薄いやらはいちいちカウントしていない。そこに〝不味い〟が加わるとは夢にも思わず、みかんに〝不味い〟が存在することさえ夢にも思わなかったのだ。これは夢か?
不味いみかんに衝撃を受けた翌年、今までで一番、祖父母のみかんに近い味に辿り着く。母の地元の同窓生が、九州は鹿児島に嫁ぎ、細々とみかん作りを始めていた。同窓会という名目で、彼女の農園を訪れ、多種多様な柑橘類狩りを楽しんだ挙句、発送までしてもらって、お土産にかぼすまでひと箱つけてくれていた。
時期になるとどうせ買うのだから…と、追加で送ってもらったそのみかん。
「これ、ばあちゃんの(じいちゃんの)みかんに似てる!」
母娘の意見が一致した。
子や孫を思う気持ちや労力を省いた分、勿論祖父母の味には劣るが、やっと再会出来たね!これからもよろしく!と心の中で挨拶。
奇しくもこの年は祖父の十三回忌。苦しむ姿を見せず、残されて泣く子や孫に三本の虹を掛けて、『大丈夫よ』と旅立った祖母は、祖父をはじめ、見返りを求めず尽くして来た人々やずっと会いたかった人々に呼ばれ、歓迎されて、幸せを取り戻したのだと信じられる。
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