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古文・漢文は教育に必要ないのか?――古人たちの「息づかい」に触れて


はじめに:ハイネの誕生日と古文・漢文不要論

本日12月13日は、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネの誕生日。彼が生きたのは1797年から1856年と、ドイツ・ロマン主義の時代真っ只中……と聞くとイメージの湧かない方も多いかもしれませんが、音楽界では「愛の夢」を作曲したフランツ・リストや「トロイメライ」で知られるローベルト・シューマン、歌曲「魔王」を作曲したフランツ・シューベルトと同じ時代です。日本だと江戸時代の後期で、ペリー来航の少し前くらい。そんな時代を生きたハイネの詩や宗教および哲学的叙述は、古典的テクストとして現代においても読み継がれ精力的に研究されています
 さて、ハイネの誕生日である今日、「古文漢文」というワードがTwitter(現X)のトレンドに入っているのが目に入りました。「古文漢文」について、よくこんな意見を聞きます。「学校で教える必要なくね?」と。ですから、このトレンドワードを見てまあ、また「古文漢文不要論」が叫ばれているんだろうな、と思ったのです。果たしてネットの海を潜ってみた限りそのようでしたが、これについて論争を呼んでいるようであったのが、こちらのひろゆきさんのツイートでした。

宿題は、理解出来てる子には無駄な作業。わからない子は宿題も出来ないままという学習効果の低い行為です。教育方法も状況に合わせて変えていくべきで、宿題や漢字の書き取りや古文・漢文などの昭和のやり方を続けることが正解だと大人が信じ込むのは良く無いと思います。

https://x.com/hirox246/status/1734796355900465414?s=20より。
2023年12月13日閲覧。強調は筆者による。

ここでひろゆきさんが仰っているのは、物事の変化に柔軟に対応する、無駄のないスマートな教育のあり方です。その具体例として「古文・漢文をやらせる教育って古いよね」という考えが示唆されているにすぎず、「古文・漢文を即刻やめさせろ!」という主張が主として展開されているというわけでもありません(とはいえ古文漢文は大学でやりたい人がやるだけでいいじゃないか、というツイートもされているようですが)。しかし、このツイートを見た人たちの間で、「やっぱり古文漢文って社会に出てから使わないし、義務教育に必要ないよな!」という意見や、「いいや、古文漢文の授業はあった方が良い」という意見が飛び交っているようでした。さて、この「古文漢文不要論」、読者の皆様はどうお考えでしょうか?

古文・漢文を使う機会はほとんどないけれど、私たちには古典が必要

 確かに、古典が少なからぬ人々にとって退屈かつ困難であるわりに、社会に出たところで、古文や漢文を使うことは殆どありません。『大鏡』を読めばExcelの関数やマクロが使いこなせるわけではありません。孟子が恋のキューピットになってくれるわけでもありません。よく「歴史や古典を教訓に」という主旨の意見も聞きますが、古典を読んだ全ての人が教訓に気づいたり、読んだことを日常生活に適合させ、活かせたりするわけではありません。
 しかし、そんな古文・漢文が教育においては必要なのだ、と私は考えます。

自分のいる国を生きた人びとの息づかい

 この記事を読んでいる皆さんの多くは、日本で生まれたか、日本で暮らしたことがあるか、日本語を話すか、いずれかに該当する方が多いかと思います。「日本」はそうした多くの人にとってアイデンティティを、「自分」というものを形作る要素たりうると思います。そんな日本が、どのような歴史を辿り今に至るのか日本語というものがどのように使われてきたのか。これを、「ことば」「(言葉を使う)」という観点において学び親しむことができる歴史的な足跡。それが、「古文」「漢文」であると私は考えます。すなわち、古典に親しむことは、自分のいる国を生きた人びとの息づかいを感じるいとなみなのです。義務教育における古典の時間も、それらに親しむ機会として、貴重なものである、というのが私の考えです。
 日本人は、古くは平安時代の『竹取物語』の時から架空の物語を読み、『枕草子』にあるように四季を尊び、「うつくしきもの」「心にくきもの」等の中で日常を送ってきました。紫式部の『源氏物語』が、『更級日記』を残した菅原孝標女をはじめとした多くの人々の心を掴み、江戸時代になっても本居宣長源氏物語玉の小櫛』のような注釈書が出るなど深く読み継がれ、現代では外国語で出版されるに至り、1000年以上の時を越えて読まれ、研究されてきました。漢文も、一見して日本と関係ないように思えますが、日本人も子来から漢籍の素養をステータスとしてきました。『平家物語』等で言われる「和漢混淆文」のように、文体に漢文の影を見ることもあります。日本語文化を支えてきたの1つに、漢籍という世界があるといっても過言ではないのです。そういった「息づかい」や「古人が生きた足跡」を学び、知識を噛み砕き、自分のものにすることで、学び手は自らの世界観を自らの中に作っていくのではないか、と私は思います。

古典を原文で読むからこそ可能な、ダイレクトな読み

 ただ、そうした古人の「息づかい」に触れるとか、教養として知っておく、といった話をすると、こう思う人もいるかもしれません。「それなら現代語訳を読むんじゃ駄目なの?内容を知ることができれば充分じゃないの?」と。
 「ファスト教養」「倍速視聴」という言葉があるように、時間に追われた現代人。何事もコンテンツを手っ取り早く消費したいと考えるのが我々の心理であるかもしれません。古典も同じで、わざわざ古典文法を学習し、原文を読んで理解するという労を取るよりも、現代を生きる我々の使う言葉に翻訳されたものを読めばいいのではないか、と。しかし、「翻訳」という仕事には「翻訳者」が介在します。「これはペンです」、「こいつァペンだぜェ」、「こちらはペンですわ」「Das ist Stift」。これらはいずれも、たった1つの英文「This is a pen」の翻訳文たりえます。このように、原文から何かを翻訳する際には、翻訳者の知識、ボキャブラリ、解釈、センス、偏見、大人の事情等々、様々なものに左右されます。その訳文が間違っている、というわけではありません。しかし、古典を通じて「息づかい」を純粋に、そのまま感じるには、古文や漢文の文法や、古典的な背景的知識を身につけた上で、原文を読み、解釈し、味わえるということが重要なのではないでしょうか。

おわりに

 ここで述べてきたように、私は古典に関する教育を「無駄」とは思っていません。自分の生まれた、或いは暮らしている、日本という空間を生きた人びとの「息づかい」を学び親しむためにも、そのような教育が必要であると考えています。
 しかし、私はひろゆきさんや「古文漢文不要論者」と論戦を繰り広げたいと思ってこのnoteを書いているわけではありません。古典を学ぶことの意義についての、私なりの考えをお伝えしてみた、というだけのものです。ひろゆきさんの仰るように、「状況に応じた教育」というものが(あくまでその人その人にとって良い方向に)実現できれば、子どもたちも伸び伸びと学び、成長できるのではないかと思います。
 この記事が、ひとりでも「古典っていいかも」「古典って素晴らしい」と思うひとつのきっかけになれば、嬉しく思います。

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