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珈琲と呪文 

 珈琲と呪文。このふたつの組み合わせで、気持ちがふっと軽くなった人の話を、今日はしたいと思います。志保さんという女性の話です。

 志保さんの家から車で五分の場所、線路沿いの田んぼの中にぽつんと『珈琲豆専門店タカハシ』はあります。二年前に都会からやって来た男が、古い民家をリフォームして開いたお店です。
「こんにちは」
 ガラスの入った古めかしい引き戸を開けると、
「あ、志保さん、いらっしゃい」
 商品陳列棚の横で文庫本を読んでいた高橋さんが、顔を上げて言いました。
 志保さんは店内に入り、まず大きく息を吸います。木材にまで染み込んだ珈琲の香りが胸いっぱいに広がると、今度はゆっくりと息を吐きます。

「珈琲豆を買いに来ました」
 珈琲豆しか売っていない店で、この台詞は不用だと分かっているのに、毎回、志保さんは言います。
「志保さん、お時間ありますか? 良かったら、珈琲を一杯いかがですか」
 高橋さんも、いつも同じ台詞で応えます。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 高橋さんが淹れてくれる、このサービスの一杯が楽しみなのだから、断ったことはありません。

 高橋さんが豆を挽きペーパーフィルターに入れるまで、志保さんはレジの前にある丸椅子に座って、店の奥の焙煎機や豆を眺めて、黙って待ちました。
 高橋さんが、細長い口のついたポットからゆっくりとお湯を注ぎはじめると、志保さんは立ち上がって、ペーパーの中の粉の様子を覗き見ます。ふくふくと膨らんでいく粉は、親戚の赤ちゃんの顔を見たときのように、ずっと飽きずに見ていられます。

「あの線路沿いにできた珈琲豆屋、バツイチなんだって。なにか事件を起こして、離婚したらしいわよ」
「縁もゆかりもない、こんな僻地へきちに来たってことが、怪しいわよね」
 二年前、地元の女たちの会話を、志保さんは近所の温泉の湯船の中で聞きました。ため息をつきながら聞きました。
 三年前、志保さんが越してきたときは、志保さん自身がうわさの人物でした。
「あの人、元モデルだって」
「偉い人の愛人だったけど、別れるときに一生遊んで暮らせるお金を貰って、あの家、買ったらしいわよ」
 お祭りの手伝いをしろと招集された集会所の台所の扉の向こうで、自分についてヒソヒソ話している声を、志保さんは聞いてしまいました。
 だから、たぶん、高橋さんの噂も半分は事実で半分は全くの嘘だろう、と志保さんは思っています。どうでも良いことだとも思っています。

 深い赤みのある液体がサーバーに溜まると、高橋さんは二つの白いカップを取り出して、注ぎ分けました。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
 レジ前の硬い木製の丸椅子に、志保さんは脚を揃えて座り、背筋を伸ばして、珈琲をひと口飲みました。少しずつ、ゆっくりと楽しみました。
「ホンジュラスのコパンの豆、中深煎りです」
 高橋さんが静かに告げました。

 引き戸のガラスの部分からは、一両編成の電車が通るのが見えます。田んぼの中を走る電車は、なんだか現実味がなくて、水彩画のようです。
 すぐ近くに無人の駅があり、その横にある踏切のカンカンという音が店の中にまで小さく響いてきます。カンカンが珈琲の香りに混じります。カンカンカンカン。
 志保さんと高橋さんは、踏み切りの音に聞き入っているかのように、黙って珈琲を飲みました。

「この豆を二百グラムと、前回買った豆を二百グラムください」
 珈琲を飲み終えると、志保さんは欲しい豆を注文しました。豆の銘柄は覚えていません。カタカナの名前を覚える努力もしていません。
 高橋さんは「この豆はホンジュラスコパン」と言い、レジの背後の棚から、誰がいつ何を買ったのかを記入しているというノートを取り出してきて「前回はコスタリカセントタラス」とつぶやきました。

 二種類の豆を計量して、茶色の袋に入れて、高橋さんはレジを打ちます。
「私、来月から、スーパーで働くんです」
 バックから財布を取り出しながら、志保さんがそう言うと、高橋さんは器用に片方の眉毛を上げました。
「私、一生遊んで暮らせるお金なんて貰っていませんから」
 志保さんは珈琲豆の代金をトレイに載せながらそう言い、高橋さんの顔を見ました。
「噂なんて、そんなもんですよ」
 高橋さんはフッと息を吐くように笑い「噂なんて」と繰り返し、豆の入った袋を志保さんに差し出しました。
「そんなもんですね」
 志保さんも、頷いて笑いました。

 店の引き戸を開けると、冷たい風が吹き込んできました。まとったはずの香りが一瞬で消されるような気がして、志保さんはカーディガンの前を合わせました。 
 そして足元に目をやると、引き戸のレールの横に、珈琲豆が落ちているのが目に入りました。どこからか転がり落ちてきた豆が一粒。豆も人間も、簡単に転がり落ちるものですね。
 見送りに出てきてくれた高橋さんがそっとその珈琲豆を拾うのを、その指先を、志保さんは見つめました。そして、志保さんは顔を上げ、つぶやきます。呪文のような銘柄を。
「コスタリカセントタラス」
 くすっと笑った高橋さんも、志保さんを見つめて呪文を唱えました。
「ホンジュラスコパン」



小牧さま。初めて参加させていただきます。
よろしくお願いいたします。
#珈琲と #シロクマ文芸部

⭐︎過去作品『コーヒー豆を買いに』を改題して、思いっきり書き換えました。2,102文字


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