【Twitterまとめ】無責任な暴力的ポジティブが「死にたい」と呟く人を追い詰めてしまう話
暴力的なポジティブは、たまに人を追い詰めて殺すくらいの破壊力がある。
大丈夫だよ!
気にしすぎだよ!
死んじゃ駄目だよ!
これ等の発言が、ギリギリの精神状態の人間にとっては『全否定』のメッセージを持っていて、場合によってはとどめを刺す可能性が有ることを知っている人が、個人的には好みのタイプです。
「もう頑張れない」という状態の人に『甘えだもっと頑張れ!』っていうのは、その人自身の「もう頑張れない」という感情の全否定。
「死にたい」という状態の人に『とにかく死んじゃ駄目!』っていうのは、その人自身の「死にたい」という感情の全否定。
分かるだろうか。
『暴力的なポジティブは、たまに人を追い詰めて殺す時がある』という私の持論は、こちらのNikovさんのツイートに解説されている概念と同じものです。
選択肢がないくらい追い詰められている時、自分の死が唯一の救いっ思ってる時に「そんなこと考えてはいけない」と正論で全否定されると、もう何も無くなって居場所がなくなる。自分が死にたいの渦中にあった時「そう考えるほど辛いんだね」と「今だけは甘いもの食べて少し休もう」と誰かが受け止めてくれたらと、当時は思ってたかな。根本的な解決のアドバイスなんか求めていない、誰か辛い気持ちを分かってくれた、それだけでその日は生き延びられた。
「死にたい」まで追い込まれている精神状態からどう這い上がるか難しい問題だけど。自分の経験と当時の感情から、私は親しい人から死にたいという言葉を聞いたら否定しない。自分の過去の話はする。そんで「もう決めたという時の直前に連絡頂戴、最後に奢るから一緒に豪遊しよう。1度だけ俗世の欲望にまみれよう。」と伝えたりする。申し訳ないが、本気で去ろうとする人は追わない。ただ最後に、そこまで耐えたご褒美みたいに楽しい時間を沢山あげたらいいかなと思ってる。なにしろ他人の人生には責任を持てないし介入をする余裕も私にはない。そうやって人に打ち明けたことで自力で這い上がろうとする人の背中だけは少しだけ押すのを手伝う程度しかできない。この考えは全部、昔の自分が欲しかったもの。そんな風に見守ってくれる人が居たから、きっと頑張れたと思う。実際、周囲の信頼できる人々はそんな風に一定の距離を保ちながら言葉で寄り添ってくれた。だから他人に依存せずに自力で這い上がれた。だから今の自分がある、という感覚。「あなたが居なくなると私は寂しいなぁ」という自分の感情は伝える。社会規範として死んではいけない!と頭ごなしに唯一の選択肢を奪ったりは出来ないよ、みたいなイメージの話です。うまく表現出来ない。少し休んで視野を広げて、実は他の選択肢があるんだということを本人が気付くのが大事。
私自身はそんな対応しか出来ない。ここまでが自分の限界。
そして本題。
20年も毎日ネットしてると「暴力的で無責任なポジティブ」を頻繁に見る。赤の他人に言われる「死んじゃ駄目だよ絶対に!」がどれほどの破壊力があるか。それを口にする暴力的ポジティブな人は、自分が死ぬなんて考えもしないから、この破壊力があるんだよって言う価値観を押し付けてる点はきっと伝わり難い。
目の前に「死にたい」という人がいたら、どうすればいいのか。
答えは一つではないけれど、多くの状況に対応出来そうなのは『じゃりン子チエ』です。これです。「本能を満たしてあげる」から始めないといけない。
「そんなに辛いんだ。大変だったね。」
「ご飯食べてる?」
「睡眠足りてる?」
「最近笑った?」
「音楽聞いたりしてる?」
「あなたといると楽しいな」
目の前の人が死にたいと呟いたら、まずはそこから始めるのがいいよ。いきなり「死んじゃ駄目」なんて、ハードル高すぎるんだよ。「生きられる方法を探すこと」が分からなくなってんだから、もしもその人を助けたいならそこをサポートするしかない。
でも、口に出せるくらい強い希死念慮が既にあるなら、必要なのは医療サポートです。病院に行って投薬で、まずは脳のバランスを調整して脳を休ませないといけないのだよ。専門家に診てもらうのも凄く大事。希死念慮とは本当に独特でね。
『私は死ぬ必要がある、死ななくてはならない』
という状態で本当にあと一歩踏み出す寸前みたいな状態のこと。こればかりはもう精神科に入院のレベルで本当にヤバイ。脳がヤバイ状態なの。この辺の見極めは難しいところですが、目の前の相手の親密さによってどこまでサポートするかは決めていい。
「死にたい」くらいの重い人生を支えるということは、とてつもなく大変な事でもある。目の前の人を死なせたくない、ってのも大事な感情だから否定しない。ただそこで、物凄く簡単に「死んじゃ駄目だよ!!」って、ただ理由もなしに「生きていればいことがある」だの何の保証もない戯言並べて力説するのは、追い詰めるだけな場合もあるから辞めとけよ、ってお話です。マジ辞めろほんとに。お前相手の人生の何を知ってんだよ何様だ、です。
生きるって、二段階あるんだよ。心臓が動いて生命があるかどうかよりも前の段階で、みんな社会的に「生きている」。
社会に居場所があって、役割があって、その中で人とやり取りをしていくということ。何かを学んだり、何かを作ったり、色んな活動をしているということ。そういう社会の一部の組み込まれている「社会的な生」みたいなものの概念って、あるじゃない。「死にたい」て追い詰められている多くの場合、それは「社会的に死にたい」じゃないのかな?
(不治の病にかかって病気の苦痛で「死にたい」という場面だと、それは生命にかかわる問題になるのだろうけれど。この方向はまた別の難しさがあるので言及できません。)
「死にたい」の意味が「社会的に死にたい」のであれば、それは多分、可能だよ。
行かなくてはならない場所に行くのを辞めて、会わなくてはいけない人に会うのを辞めて、片付けなければいけない案件から離れる。ただ、生きてみる。あなたは社会的に死ねます、大丈夫。死ねるよ社会的に。でも生きてるよ。人間が生きるにはお金がかかるので、そう簡単ではない事は分かってる。未成年の場合、親の存在が絶対になってしまって原因が家庭にある場合はなかなか逃げられない。これも簡単な事ではないのは分かってる。でも死ぬ前に「逃げる」を選択する事は大事。自分に合った環境を探す旅に出よう。もちろんそこに何の保証も無いけれど。未知の可能性だけは少し増える。それに賭けるかどうか。
私は現代短歌をよく書くのだけど、色んな側面からの経験や思考から出来たのがこの短歌です。
その人が社会的に一旦死ぬために環境を変えること、サポートしようと思う人はそれを手伝う覚悟があるかどうか。たまに、この短歌に私の大変苦手な「暴力的なポジティブ」のレスが付くことがあって。「そういう事ではないのだがな」と、思いながら読んでます。価値観の違いはどうしようもない。
きっと今書いてることに対しても自称「善良」で「ポジティブ」な人から『でも死んだらイケナイと思います!』ってレスがきそうだな。
自分が死にたくない人は生きていたいと強く思うから、多分他者にも「死なないで」というのだろう多分。前述したが、私は死にたいという話を聞いても止めない。その感情は否定しない。死にたい人に死なないで、ではないんだよ。多分。消去法ではすべて消えてしまう。最後の最後は本当に、死ぬしか残らない。
どうやったら生きたいと思えるのか?
生に執着出来るようにするには何が必要か?
死ぬのを禁止しておいたら、その人はどうなる???
悲しい話だが、どうしても生きられない人が世の中にいる。人生はすべての人に平等には出来ていない。信じられない劣悪な環境で理不尽の中、生き抜かなければならい人だっている。皆が皆、同じ世界を生きているわけではないという想像力を。どうかそこに想像力を。貴方が生きてきた世界が、この社会のすべてではないんです。
一人では生きられない人、助ける側なら中途半端には手を貸してはならないと思う。無暗に手を出せばお互いに蝕まれる事もある。かといって「お前死ぬの禁止な!」という意味の否定を発しても、逃げ道を失ったと感じている人には最後の道さえその言葉で断たれてしまうので。どうやって生きればいいのさ?しか、返答できなくなるんだよ。
難しい問題だけどね。本当にね。
正論の生命倫理では片付かない。「死にたい」と言うその人が貴方の人生においてとにかく大事でなんとしても引き留めたいなら身を捧げる覚悟しかない。その覚悟があって、言ってるのか?
覚悟も無しに、ましてやネット上で見かけた見ず知らずの死にたい人に『死んじゃダメだよ生きていればいいことがあるんだ』なんて。そんなのただの暴力じゃないか。
自分は人生で何度も「死にたい」に取り憑かれて、大昔は深夜に一人で過呼吸起こしたり、自傷の衝動も経験してる。そして生きる方に戻ってきた。自分ならそういう対応が良かったと思う、そして今こう考えるようになった、という視点での話です。性格は人それぞれだから。答えも考えもそれぞれ違う。不快な方はすみません。
今は生きたい理由があるから生きてる。劣悪と感じた環境からはすぐ逃げるし、精神的に疲労したら即怠ける。私はそうやって生き抜く術を身に付けた。昔の私が死にたくなった気持ちを否定せずに、離れた距離から寄り添ってくれた人に感謝している。
これを今読んでいる貴方は、この話をどう考える?
生死に関してのこと、とても難しいことなので言葉を選ばなくてはならないけどさぁ。前にも沢山書いてきたことだけど。
同じこと何度も書くけど、何か辛い状況に追い込まれて「死にたい」という人に、『とにかく死んではだめだ、生きろ!生きていればいい事あるから生きろ死ぬな』って言うだけなのは暴力の一種だと思ってる。
「生きる」=良い事
「死ぬ」=悪い事
という強い概念があることは当たり前なので分かってるけど、これは現代の倫理観。『もう生きられないと本人が判断するくらい、とてつもない苦難を前にしている』人にとって何の根拠を持って「生きてたらいいことある」なのか。具体的に何?何なの?説明してよ?ねぇ、言い逃げやめてくれる?自分が「死ぬな」っていうポジティブな言葉を人に与えた気になってさぞかし気持ちいよな?そういうお前の自己満足で、たまに相手は何度も心が死んでいるのにな?
「とにかくイキロ」だけしか言わず助けず手も差し伸べず、何が何でも私の目の前で死なれると感じ悪いから死なないで?的な発言。そこまで言うなら個別に責任取ってあげられるのかお前?って、思うの。何度も何度も何度も書くけれど、こういう暴力的ポジティブで殴ってくるタイプの人とは反りが合わない。この話題書くと必ずリプとか引用で「それでも私は生きろって言いますけどね!言い続けますけどね!」ってわざわざ書いて下さる人が居て、ああ、そういう所が無理なんだよって、思うの。ごめんね。お前らなんか大嫌いだよ。毎日タンスの角に小指ぶつけて悶絶して生きながら苦しめ。毎日出勤前に野良猫のウンコ踏んでろ。
人間は、生きてきたようにしか死ねない。難しい話です。
『1秒でも長く生きる事こそ美徳』みたいな倫理観、やめようよ。つまんないよ。短くても色濃く生きたいよ私は。
心の問題って、厄介なものでね。本気で自分で這い上がろうとする人しか、助ける余裕ないんだよね。引きずり込まれてしまうから。
だから最後にひとつだけ。人格障害がらみの「死にたい」発言は、相手をコントロールするための手段となっていてどうしようもない場合が多いから離れた方がいい。うっかり助けようとすると自分が鬱になって死ぬ。共依存で連鎖する。そのあたりの話は以前のこのnoteに書きました。
内容が難しくて、書こうとしてもとっ散らかるね。
生きられるものなら生きたいよ。どうすりゃいいんだよ、なんだよね。
答えは自分で見つけるしかないみたいだよ。
反響の多かった自分のツイートを読みやすいよう、繋げてテキストとして残しています。(誤字脱字の修正と文章の微調整をしてますのでオリジナルを改変しています。)
センシティブな内容なので、コメントは返事しないと思います。ごめんね。