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KOJIKI<倭建命⑥>
倭姫命から 天叢雲剣をあづかった倭建命は、尾張国に入り国神の館に入りました。そこの館の比売、美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚をしたいと思い、結婚の約束をしたまま東方に赴きます。
倭建命は東国制定の暁には美夜受比売と結婚しようと思っていたのでしょう。
東国に進行し、荒ぶる神々を次々に打ち取りながら、相模国までくると
そこの国造が、「この野の中に大きな沼があります。その中にとても荒荒しい神が住んで
KOJIKI<倭建命④>
出雲国は出雲建という国神がおさめていました。
この古事記のはじめの主人公だった大国主命の存在です。最初に地の国で国造りを行い、天照御神に国譲りした神様です。大国主命の国つくりのはその知的な考えと、男前な神で大変モテたという伝説からもわかるように、各地の国神の比売と縁戚を結んでいます。
その範囲は東は越(越後)、西は宗像(筑紫)に及びます。もちろん、それなりに色恋の揉め事はあったようですが・・・
KOJIKI<倭建命②>
当代きっての歌舞伎役者、市川猿之助。「古事記」を題材に哲学者、梅原猛が三代目市川猿之助(現 猿翁)のために書き下ろしたスーパー歌舞伎の傑作、『ヤマトタケル』
ヤマトタケルの波瀾に満ちた半生を、壮大な構想で独創的なドラマとして構築した『スーパー歌舞伎 ヤマトタケル』は、昭和61(1986)年に猿之助(現 猿翁)自身の演出によって初演されると同時に、大旋風を巻き起こしました。
古事記の世界からあま
KOJIKI<倭建命①>
今日から、「倭建命」のお話です。神話の世界の中で、彼ほどひときわ知名度が高く、人気もあって、愛情深い神様はいらっしゃらないと思います。12代景行天皇の御子で、皇子という立場にいながら、少年のころから帝の命で西征し、熊曽建(くまそたける)や出雲建を討った後、さらに東方12カ国平定を命じられた悲劇の皇子です。
トップの写真は、近江国一之宮建部神社に今年参拝をしたときのものです。こちらが建部神社のH
KOJIKI<まほろば⑤>
垂仁天皇の皇后、沙本毘売命はなくなる時に御子の乳母として
「丹波国に住む、比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)に兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の二人がいます。立派な方々ですから、このお二人を」
と伝え炎の中に消えました。
丹波の比古多多須美知能宇斯王には4人の娘がいたので、垂仁天皇は「せっかくだから、まとめて面倒をみようか」と4人を呼び寄せました。これには理由があって、
KOJIKI<まほろば③>
時は第11代垂仁天皇の時代です。崇神天皇の御子で名は伊久米伊理毘古伊佐知命。父君と同じように纏向に宮を構えていました。(卑弥呼の墓といわれている遺跡のある場所ですね。)あ、これから先は垂仁天皇で通しますが・・・。この天皇が沙本毘売命(さほびめのみこと)を后としていた時のことです。毘売には沙本毘古王(さほびこのみこ)という大切な兄がいました。
ある日のこと、沙本毘古王が「ちょっと、聞くけど、お前は
KOJIKI<まほろば②>
さて、崇神天皇は意富多多泥古(おおたたねこ)を神主として三輪山で盛大な祭事を行い、神々を奉り祈ったところ、「天下が安らぎ栄えるだろう」との言葉通りに伝染病も収まり国が栄えました。
崇神天皇はこの時期まだ大和から東の方の支配が盤石ではなかったことから、まず北陸・東海・丹波方面に軍勢を派遣し、確実に勢力下に置こうとしていたようです。9代開化天皇の御子の日子坐王(ひこいますのみこ)、つまり崇神天皇に