最後のひきこもり【短編】
「ついに恐れていた事態が来たのに、なんだかもうすっかり心が動きませんな。不思議な感覚です」
1日あたりの感染者数が2万人を超え、東京がまたしても過去最多の5773人を記録した夜、柏木先生とzoomで飲んだ。
「先生、ワクチン打ったんですっけ?」
「まだです。ようやく9月に予約ができました。もっと早く打てると思っていたんですが、例の自治体のワクチン不足の影響を受けていますよ」
「僕はもう会社のほうで打ちました。職域摂取ってヤツですね」
「それはうらやましい。しかし、本当に不思議な感覚です。頭ではわかってますよ。病院に入れず、自宅で死亡する方も出てきている。恐るべき事態が到来しています。まさに、昨年の春先に最も恐れていた事態が目の前で起こっているわけです。しかも、当時とは違う変異種が猛威を振るっている。だけど、もうすっかり自粛生活にも慣れてしまっているし、人に会わない生活にも慣れました。だから、何か感覚が鈍ってしまったのかもしれない」
「ねえ、こうやってzoomで飲むってのも、もう1年以上続いてますものね」
「となると、私の場合はワクチンを打てるまであと少しの我慢、という気分なんですな。ええ、わかってますよ、ワクチンを打ったからって完全に感染を防げるわけじゃないとか、デルタ株には効き目が薄いらしいとか、だから3回打ったほうがいいらしいとか。でもね、情報は仕入れていますが、なんかもう他人事の気分なんですよね」
「そりゃ先生が完全自粛生活をしているからじゃないですか?」
「いや、完全ってことはないですよ。たまには出歩いてますし、緊急事態宣言が出てないときはあなたと二人で居酒屋で飲んだりしたじゃないですか」
「ああ、一瞬だけ酒が飲めたときですね。久々の飲み屋での先生との会話、楽しかったな」
「こういう事態にならないように自粛生活してたんですが、なんだかバカバカしくもなりますな。なんのために我慢してたやら。とはいえ、我々はこうやって引きこもってられますが、そうではない人たちは本当に大変ですね。頭が下がりますよ」
「医療従事者などのエッセンシャルワーカーの人たちですね。飲食店の人たちも大変だし、我々のような引きこもれる人たちとの分断が進んでますね」
「本当に分断ですよ。会ってないんだから。しかし、ピークアウトしませんな、今回の第5波は。もちろん、ワクチンの効果もありますし、いずれ減っていくとは頭ではわかってるんですが、もう永遠にこの生活が続くような気もします」
「ワクチン摂取が進んで、あと一息でこの生活も終わると信じたいんですけどね」
「最近、妄想するんですけど、20年後ぐらいにコロナが終わってもそのことに気づかないでずっと引きこもっていた人が出てきたりしないかな、なんてバカなことを考えるんですよ」
「『最後の日本兵』ですか。戦争が終わっても、30年ぐらい島で戦い続けてた小野田さんみたいな? でも、島で情報がない状況とはまるで違いますからね」
「そう、その通り。そもそもテレビ、新聞などの情報がなければ、自粛生活にも入りませんからね。だから、コロナ収束を知らないってことはありえない。だから、そんなことは起きやしないんですが」
「あ、でも、コロナ陰謀論の新パターンで、『コロナ収束はウソだ』って引きこもり続ける人は出てこないとも限りませんね」
「ああ、それは新しい。でも、単なる引きこもりになっちゃうかもしれませんね」
ひとしきり笑いあったあとに、柏木先生が真面目な顔になった。
「でも、その妄想は恐ろしいな。世界中が自分を騙してる、と。外を歩けば、みんなマスクしてるけど、みんな私を騙すために意味なくマスクしてるとか。あなたも、誰かに雇われてこうやってzoomで私の相手をしているだけとか……」
「ははは。『トゥルーマン・ショー』ですか。何のために先生を騙すんですか、世界中が」
「というか、あなたは実在していなくて、こうやって会話しているのもAIが相手だったり……」
急にzoomの画面が止まった。タイミングがよすぎる。
柏木先生にLINEを送ってみようか。
『バレたようなので、実験を終了します』
書きかけてやめた。
しかし、このまましばらく連絡取らなかったら柏木先生はどうなってしまうだろう。ちょっと面白いな、やってみようか。
★
「柏木博士、なぜあんなことを言い出したのです」
白い壁の実験室で、ヘッドマウントを外した柏木博士は同僚にあきれられていた。
「いや、少しかわいそうになってな。あまりにもデキのいいAIだから、本当のことを教えてやろうか、と」
「教えたところで、何の意味があるんですか。当時のSNSの書き込みから再現したただの仮想人格に『君はただのAI だよ』と教えたところでバグにもならない。さて、2021年8月のシミュレーションは終了しますよ。次は1000年後、3021年の地球を仮想空間で再現しますんで出てってください。私は世界人口がなぜこんなに減ったのかの検証作業中で忙しいんです。私の実験であんまり遊ばないでください」