想像力は愛
詩人の高村幸太郎が、妻である智恵子について詠った詩集「智恵子抄」に掲載されている詩の一節である。
精神分裂症(今でいう統合失調症)を患った智恵子は、故郷である福島の自然を恋しがってこういったという。
智恵子は療養のため、夫と離れて福島に滞在している期間が長かったのだが、高村が智恵子と過ごした福島での時間をうたう詩もある。
「あどけない話」の詩からは、智恵子のいう「ほんとの空」がわからないという高村の気持ちが伝わってくる。
「樹下の二人」では、妻の愛した自然に身を置き、妻をはぐくんだふるさとを知りたいという想いがわかる。
自分がわからないものをわかろうとすること。
相手が大切にしているものを理解しようとすること、そして同じように大切にすること。
これっていわゆる「想像力」。
智恵子抄は最上級の愛の詩集で、それはもうはるか過去に詠まれたとは思えないくらい甘ったるい愛で、高村は病んでしまった妻の精神を含めたすべて愛していることが一文字一文字から伝わってくる。
そこには想像力がある。
結婚するまえから、智恵子に死後に渡って、彼女のすべてに寄り添いたいと、一挙一動からその心を想像している。
想像力って、愛なんだな。
あれが安多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
このフレーズが昔から好きで、福島の自然を想うとき、自然とこの詩が心に浮かぶ。
私の場合、「阿多々羅山」ではなく、別の山をあてはめたほうがしっくりくるんだけど。
私の住むまちは小さな盆地だから、どこをみても山があって、そこを流れる阿武隈川がキラキラ光っていて、そういう、故郷のイメージ。
美しいんだよ。
そういうのを一つ一つ指さして、教えたい人がいた。
智恵子が恋しがった「ほんとの空」は私にとっても「ほんとの空」で、それを心のなかに大切にもって、故郷を離れた地で生きていた。
結婚した人には、そのことを知ってほしかった。
欲を言うなら、同じものを大切にしてほしかった。
そういうことを大事にしてもらえることが、そして自分も相手の心を想像することが、たぶん本当の愛だったんだと、久しぶりに智恵子抄を開いて気がついた。
気が付くのが遅すぎた。
智恵子抄はずっと手元にあったのに。