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年中行事は人生を支える

 『季節のイベントを楽しみたい』とよく言っている。誰が?私がだ。なぜかわからないが、季節のイベントを楽しむことへの執着にも似た憧れがずっとある。

 幼い時から行事が多い家庭に育ったわけではない。例えばクリスマスは1、2回ほどは楽しく家族で過ごした思い出があるが、それ以外は、よくわからないプレゼントをもらっただけの記憶が2回しかない(初稿では数回と書いていたのだが、よく考えたらしっかり2回しか記憶がなかったので書いておく)。プレゼントをもらったというだけありがたい、文句をいうなとお叱りがきそうだが、あなたの想像とは違うと思う。例えば、小学2年生のときのプレゼント。もらったというか、朝おきたら布団の横に上履き袋が置かれていた。クリスマスプレゼントだとわかったのは、それが赤と白の配色で白熊の刺繍つきというクリスマス柄だったからである。幼心に、「これはプレゼントというよりもプレゼントを入れる靴下の側に近いのでは?」と思ったそれは、生地もクリスマス仕様でもっさりと厚かった。その暑苦しい上履き入れはその後、少なくとも小学校を卒業するまで使うことになった。おそらく小学校3年生頃を境にクリスマスはおしまいになったと思う。お正月はどうだろうか。1度だけ、祖父母宅に、いとことうちの家族が集まり、お正月用の食器、お節のはいったお重、お屠蘇を囲んで集まったことを覚えている。私にとって、お正月の形はこれだ。その年は確か巫女さんもやった気がする。ただ、その1回のみで、それ以外は家族で”らしい”お正月を過ごしたことがない。とはいえ、お正月というのは世の中も会社も休みになるし、テレビも年末年始特番に変わるし、スーパーなんかで売るものも変わってくるので、完全に普段と同じというわけにはならない。それでも、みんなでご飯を囲むだとか、みんなで初詣に行くだとか、そういう記憶はない。
 うちの家族は、食べ物を前にみんなで揃って食べよう、みたいな意識が希薄だった。同じ家にいても一緒にご飯を囲まないのだ。そんな家のお正月は、不機嫌でマイペースな母親と、各々自分勝手に過ごす父と妹(父はあまり記憶にないのでいないことも多かったのだと思う)の中で、一人、年が明ける高揚感を胸に秘めながら(なんとなくはしゃいではいけないような気がしていた)母親や妹から繰り出される不機嫌や、私が楽しみにしていた紅白の歌手への暴言にも似た批判に、何かわからない心の火(楽しさ、だったのだろうか?)を消されないようにはらはらしながら過ごしていた記憶が多い。

 時が経って、色々なことがあって家族との接触を断った。今年は完全に断って初めて迎えるお正月である。一人で迎えるお正月。体調が悪いため、張り切りすぎるとよくないので、省エネを意識して無理のない範囲でお正月の準備をした。スーパーで一人用のおせちを買い、お雑煮に必要な具材を買い、ノンアルコール(※お酒を飲めないため)を豊富に揃えて・・しゃぶしゃぶ肉を用意したりケーキを買ったりポテチを買ったりイチゴを買ったり。おせち、お雑煮以降はもうケーキ屋さん、スーパー、八百屋さんの言いなりである。かくしてむかえたお正月はどうであったか。
 

 最高であった。
 

 一人だと寂しいのでは、と思われるかもしれないが、そんなことは全くなくて、しみじみと、今年一年生きることができてよかった、と思えた。食べるもの飲むもの、口にするものすべてが一口一口美味しく感じられた。自分に対してお疲れ様の気持ちで、お風呂に入り、お湯の熱さに歓喜の声を出して愉しんだ。体調と相談しながらだらだらとすごして、4日には、予定になかった、氏神様への初詣もかなった。自然と行こうと思えたのである。

 そして思ったのは、年中行事はリズムを作ってくれる、ということだ。人は緩と急、交換神経と副交感神経の切り替えのリズムの中で生きている。リズムが狂うと、具合が悪くなる。私の場合はすでに悪くなって数年、もしかしたら10年くらい経っており、特にここ2年はリズムを直すことが大きな課題になっていた。そんなわけで、1日のリズム(朝目が覚める、夜気持ちが緩んで眠くなる、夜に寝て朝に起きる、など)に意識が向いていたが、リズムには1日単位、女性ならばそれに加えて月単位、のものだけでなく、年単位のものがあるのだなと気づいた。朝、日の光を浴びて伸びをするように、お正月にお正月らしく過ごす(炊事をなるべくせずおせちのような作り置きの料理を食べて心をゆったりと過ごす、静かな気持ちで参拝する、など)ことが、1年のリズムを作ってくれるのだと感じた。これがないと、自分の人生の足掛かりがない。あの年はこうだった、この年はこうだった、でもそれぞれの年の間に一晩寝たら新しい日が来るような区切りがつけられない。区切りがつけられないと、寝不足と同じで人は苦しくなる。

 行事がすべてとは言わないが、私が壊れていった背景に、そういったものもあるのかもしれないな、と思った。そして、年中行事というものがあるおかげで、自分なりにそれを踏襲して、自分のリズムを整えていくこともできるのだと学んだ。
 すでに始まったくる年は、堂々と季節と共に年中行事を追いながら、先人が作ってくれたリズムの中で生活を営んでいきたい。

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