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限界看護師の適応障害キロク②

限界看護師の適応障害キロク①のまとめ

なあなあでこれまで過ごしてきた私は、看護実習・国家試験も問題なく進み、近隣の大学病院へと入職した。配属先は病院で最も過酷といわれる脳神経外科病棟。その前評判通り、お局看護師からは詰められる毎日。5月には2年目の先輩看護師が自殺未遂の後に休職、6月には同期が一人休職した。その頃にはもう80時間前後の残業や食事や睡眠がまともに取れず激痩せするなど、私自身にも身体の異変が起きていた。


7月に入った頃、教育担当から一人ずつ面談を行うと言われた。業務内容や周囲との人間関係はどうか、何か気掛かりなこと悩んでいることはないかと、そういった内容についてだったと思う。

私の順番は2番目。業務が終わった頃に教育担当と面談を行った。教育担当もさすがに3ヶ月で激痩せした私を見て心配だったようだ。

  • ご飯は食べられているか

  • 夜は眠れるか

  • 食べられない、眠れないのならその原因は何か

取り繕っても意味はない。ありのままに話した。

ご飯は固形物が食べられなくなったこと、今はヨーグルトやジュースばかりなこと、夜は不安で眠れないし、眠れても数時間で起きてしまうこと。業務は毎日わからないことが多くて、しかもそれを詰められるのが辛いことなど、全て話した。

教育担当は頷きながら聞いてくれた。そして、話の最後に「この話を師長にも伝えていいか」と聞いてきた。特に隠すことはない。問題ないことを伝えた。

後日、師長から呼び出された。

先週の教育担当との面談の内容が伝わったんだろう。改めて自分を含めた3人で面談をしたいと。

師長、教育担当、そして私の3人で面談が行われた。話す内容は特に変わらない。先週の状況と変わりないか聞かれたので、変わらないと答えた。

師長は、「一度当院のリエゾンナースと会話してほしい」と言ってきた。自分の勉強不足だが、ここで初めてリエゾンナースという言葉を知った。

要はメンタル面が心配なのだろう。了承し、また後日リエゾンナースと面談をした。

リエゾンナースの判断は早かった。すぐに心療内科を受診するようにと、提携先の心療内科を紹介してくれた。心療内科に連絡すると翌週なら初診の予約が取れるという。

正直、気は重かった。こんな状態になってもなお、私は自分が大丈夫だと思っていたし、その内何とかなるだろうと信じて疑わなかったのだ。

しかも心療内科。風邪すら引かない自分がメンタル系の病院に行くことになるなんて……と、恥ずかしい気持ちもあった。

初めての心療内科受診と適応障害の診断

受診日当日、問診票を記載すると別室でカウンセラーからさらに詳しい話を聞かれる。その内容をもとに医師との診察が始まった。

医師からは、

  • 明らかに仕事が原因なこと

  • 急激な体重減少から別の疾患の可能性もある

このように指摘を受け、疾患の精査のために採血した。採血結果は翌週の受診日に伝えるとのこと。

また、翌週受診することになってしまった。


8月に入り、2回目の心療内科受診日を迎えた。

医師からは簡潔に「血液検査から代謝系の病気ではありませんでした。今のあなたは『適応障害』の状態です」と伝えられた。

初めて聞いた病気だった。
適応障害、要は環境の変化に適応できず諸症状が表れること。

まともな食事が取れないことも、夜眠れないことも全て適応障害の症状なのだ。

それから、睡眠導入剤、そして食欲を増幅させる漢方が定期薬となった。漢方は毎食前に飲まなくてはいけないが、休憩室で他の看護師に見られるのは憚られる。

人気のないバックヤードでこっそり飲んでから昼食を取るようになった。でも、正直効果はあまり感じられず、相変わらず固形物は食べられないし、夜の眠りも浅いままだった。

パニック発作、そして3ヶ月の休職へ

9月になった。少しずつ詰められる頻度が減ってきて、気も緩んでいたのだろう。

唐突だった。Hさんがリーダー看護師で、いつものように日勤帯の申し送りをしていた。その日のHさんは機嫌が悪かった。これまでなら素通りだった送りの内容も詰められ、しどろもどろになった。Hさんはイラついたようにため息を吐いて「こんなこともわからないなら看護師辞めたら?」と吐き捨てた。

その後からだった。上手く息が吸えない、気持ちが悪い、フラフラする。

ナースステーションの端にある机に急いで座って、何度も深呼吸をした。涙が溢れて止まらない。初めて職場で泣いた日だった。

様子がおかしいことに気づいてくれたのは3年目の先輩看護師だ。

「仕事やっておくから裏行って飲み物でも飲んできな」と。その言葉通り、裏手の個人ロッカーでうずくまって落ち着くのを待った。

先輩看護師が師長に話したのだろう。病棟に戻ると師長が寄ってきた。

できるなら早めに通っている心療内科を受診した方がいい、勤務は調整するから。

家に帰ってから母親に電話をした。普段あまり連絡や相談をしない私から、いきなり連絡があったから驚いただろう。それでも母親は何も言わずに話を聞いてくれ、「明日の仕事は休みなさい。朝一で心療内科に連絡して」とそれだけだった。

でも、それは私にとって本当に救いだった。毎日辛かった、誰でもいいから頑張りを認めてほしかった。辛いなら仕事を休めと言って欲しかった。

翌朝、病棟に休みの連絡をし、その後心療内科へ昨日の症状と早めに受診したい旨の連絡をした。心療内科からは「今すぐに受診してください」と指示があり、すぐに心療内科に向かった。

そこからはあっという間だった。
状態は良くなっていない、今すぐに休職した方がいい、診断書を書くから病棟の師長に連絡して3ヶ月は仕事を休むように。

その日の帰り、病棟に再度連絡をした。師長に休職の診断書をもらったこと、明日からの仕事も休ませてもらうことを伝えると、穏やかに了承の返事をくれた。

その翌日、全部門で新人の教育を統括しているリーダー長から連絡があり、診断書は郵送で送ってほしいことや毎月面談をしたいとのことだった。

そして、唐突に私の休職生活が始まったのだ。

本来なら勤務だったはずなのに休みというのは落ち着かない。同期や先輩たちにも迷惑をかける。焦りや不安がグルグルと思考を暗くしていく。

でも、これ以上怒られることもない。朝早く起きて出勤しなくても残業もしなくていいんだ。心苦しい気持ちと嬉しい気持ちがごちゃ混ぜになって、よくわからない。

でも難しいもので、急にできた暇な時間をどう使っていいのかわからない。脳神経外科の勉強をしようかとも思ったが、参考書を見ると動悸がしてダメだった。

何をしていいのかわからないながらも、好きな小説を読んだり、前々から興味があった資格の勉強をしたりと、自分のプライベートを楽しむことに全力を尽くした。

休職してからあっという間に2ヶ月が過ぎた。前と比べてご飯も食べられるようになり、体重は増えていた。相変わらず睡眠導入剤は内服していたが、残り1ヶ月となり、毎月定期的にやっていた面談日。

その面談で復帰について話し合った。

  • 復帰するということでいいか

  • 復帰先は元の病棟にするか、それとも別の病棟にするか

  • 復帰後は半日勤務から始めて少しずつ慣らしていこう

こんな内容だったと思う。

復帰については問題ない。少しずつではあるが、また働きたいという気持ちが湧いてきていたから。でも、元の病棟に戻るのには抵抗がある。何よりHさんには会いたくなかった。

正直に話し、できるなら元の病棟ではなく違う病棟で復帰したいことを伝えた。特にそれに対して難色を示されることなく、すんなり了承してもらえた。


12月中旬、3ヶ月目の面談日。
そこにはいつもの統括教育担当と、見知らぬ女性の姿があった。

私の異動先の部署が決まったらしい。異動先は『代謝内科』だった。そして同席していた女性は代謝内科の師長だった。

代謝内科の細かい病棟事情として、新人は今4名いること、病棟の体制として日勤・夜勤の勤務以外に、早番・遅番制度を設けていることなど、脳神経外科とはまた違った病棟ルールがあるようだ。

外科と内科という大きな括りだけでなく、そもそも入院する患者の疾患が異なる。慣れるのに時間はかかりそうだと思ったが、それでも問題なく復帰できることが嬉しいと思えた。

「キリもいいことだし、復帰は年内ではなく年明けからにしよう」と提案を受け、それに合意。

残りの休職期間で代謝内科に関する参考書を軽く読んでみたが、気負うことはせず、むしろ『一度、折れた人間は強い』と何度も自分に言い聞かせた。

脳神経外科を離れることになり、Hさんには会いたくなかったが、教育担当や先輩看護師、同期たちにはお世話になった。菓子折りと『お世話になりました』と一筆添えてこっそり休憩室に置いてきた。

正直、誰にも会いたくないと思っていたからすれ違わなくてよかった。


年が明け、代謝内科病棟への初出勤日。
朝の申し送りの前に師長から軽く紹介を受け、自己紹介した。

熱烈な歓迎というわけではなかったが、パチパチと拍手を受けシャドーから入ることになった。シャドーについたのはパートのママナースだ。

脳神経外科にはパートがいなかったのだが、代謝内科にはパートが4人もいた。病棟によって雰囲気も人も大きく変わるものだなと思った記憶がある。

最初の2週間は半日勤務でシャドーがメイン、その後2週間かけて1日勤務、受け持ちを2〜4人持って勤務をならしていく。

やはりどこの病棟でもお局はいるもので、代謝内科でも苦手な印象の人はいた。ただ、Hさんが強烈すぎたので、それに比べればまだマシだ。

ただ1点、明らかに異常なところがあった。同じ新人看護師である1人の同期が執拗にお局から責め立てられていたのだ。それは側からみても他の同期との差がわかるほどだった。

この病棟にはイジメがあるのかもしれない

不安になりながらもお局とは極力関わらず目の前の仕事を必死にこなした。どんなキツイ仕事でも弱音は吐かない。いつ自分がイジメの対象になってもおかしくないのだ。

あっという間に時間は過ぎていった。幸いにも適応障害の諸症状は少しずつ落ち着いていたし、自分がイジメのターゲットになることもなかった。

そして、4月。
私は2年目になった。

限界看護師の適応障害キロク③へ続く

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