【インスパイア小説】Here / homecomings
「お疲れ様でした。」
定時が過ぎ、気休め程の残業をしてもまだ人で溢れるオフィスを足早に去った。
薄暗くなり始めた街は夜の明るさを灯し始めていた。
眩しくそびえる高層ビル、その隙間を足早に行き交う人々、荒々しく走り去る車、連なる飲み屋の活気。
今にも溺れてしまいそうだ。
それらを遮るかのようにイヤホンで蓋をし、柔らかい遠くの空に凛と光るそれを目指して私もまた早足で歩いた。
春風の香ばしい匂いが心地よく鼻をつく。
いつものこの歌を聴くと、まだこんな気持ち残ってたんだと心が疼く。
未来が見えないことを当たり前のように過ごして、どのくらい経つだろう。
ちらっと横目に入ったビルのガラス扉に映る自分の姿を見て、そんなことを思った。
ほんの一瞬、足が止まりかけたけれど、今ここで足を止めたらこの都会の海に流されてしまいそうで、何事もなかったかのようにペースを乱さずただ前に進み続ける。
なんとなく目的地が同じであろう周りの数人を横目でちらっと確認しても、誰も気にも留めずにいそいそと歩いている。
一瞬ほっとして、また一点を目指し歩き続ける。
悶々と思考する私に少し冷たくなった春の夜風が吹いた。
未来どころか、今も見えていないかもしれない。
この世の中で、同じ目的に向かう集団に紛れてただ息をしているだけの小さな生き物のような、そんな気分になった。
わたしはどこ?
・・・
雑踏とした街を少し抜けると、まるで違う場所のように静かで暗い街に入る。
数分、ただ真っ直ぐ歩いただけなのに。
不思議な街だ。
真っ暗な中にロウソクのように光立つシンボル。
そんな風に、人生にも目印が欲しい。
そんなことを考えていたら、すぐにまた夜の明るい世界に入っていた。
ロウソクがすぐそばにある。
けれど、ここまできたらもうそんなものは全く見ていなくて、さらに早足でいつもの電車を目指して歩いた。
満員に近いほどの電車に乗り込む。
澱んだ空気が漂う狭い空間でぼーっとスマホ眺める大衆に混ざりたくなくて、今日も息を止めながら窓の外を見て最寄駅に着くのをじっと待った。
最寄駅についた。
どっと人が降り、また人の波を分けて歩く。
どこか寄り道したい気持ちを抑え、明るい飲食街を背にただ真っ直ぐに歩いた。
家までの道のりには公園とレトロなコインランドリーくらいしかない。
暗くて静かな住宅街だ。
夕飯の匂いに包まれた柔らかな夜のこの街が結構好きだ。
イヤホンが奏でるアルバムは一周し、またあの曲が流れ始めた。
少し歩くペースを緩める。
この街とこの曲の調和を最後まで味わってから、家に入りたい。
・・・
ポストを確認し、仕方なく3階まで階段で上がって随分と前から握りしめていた鍵でドアを開ける。
手を洗い、いつものようにシャワーでお風呂を済ませ、冷凍しておいたおにぎりを温めている間に髪を乾かす。
温まったおにぎりに適当に作り置きしておいたおかず、豆腐とわかめだけの味噌汁の簡単な夕飯。
「5日間働くを繰り返す」という体力を温存するためだけの、簡単な毎日だ。
夕飯を終え、溜まった洗い物と山積みになった洗濯物を片付けようとラジオをかけた。
もう何年も使っているソファは金曜日にしか全貌は見えない。
それはそれでいいやと、いつ買ったかわからない霜だらけのカップアイスを取り出した。
ちまちまとアイスを食べながら洗濯物を畳む。
なんとも効率の悪い時間だ。
ベランダから漂う生ぬるい風の匂いと口の中で溶けるイチゴのアイスの匂い。
なんだか無性に虚しくなった。
そんな時、流れ始めたあのイントロにまた心が疼いた。
わたしは、どこ?
カップの中で溶けたアイスに、涙が滲んだ。
・・・
夕焼けが綺麗な日。
相変わらず生ぬるい、けれど随分と爽やかになった風に吹かれながら、いつもの温かい匂いのする街を歩く。
少し日が短くなってきたなぁと感じながら、歩みを緩めた。
この繰り返す毎日も今日で最後なのに、やっぱりいつものルートを辿り、いつものようにアパートの前にいる。
曲が終わった。
握りしめていた鍵を鞄に戻し、やっぱり元来た道を引き返すことにした。
そして、ずっと気になっていたこの辺で唯一のお洒落なイタリアンレストランを目指した。
今日ぐらいは、心のままでいよう。
いや…
今日からは、心のままで生きよう。
明日からの生活に一人、祝杯をあげた。
私は今、ちゃんとここにいる。
・・・
見渡す限りの自然の中を冷たい風を切りながら自転車で走る。
雪でも降るんじゃないかというほど寒い。
どれだけ走っただろう。
もうすぐあの湖に着くはずだ。
大きなカーブを越えた時、ずっと見たかった景色と同じ景色が目の前に存在していた。
感動のあまり言葉を失った。
自転車を止めて、少し赤く染まった鼻からたっぷりと空気を吸い込んだ。
息を呑みながら高鳴る鼓動を抱え、湖に向かって進み、最高のポジションを探す。
チェックの大判ストールを敷いて道具を並べ、ドキドキしながら凍てつく手で絵の具を出し、筆を握り、真っ白なキャンバスに心のままに色を置いた。
実に20年来の夢を実現させた瞬間に、白い息が大きく広がった。
私は、ここにいる。
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monologue
半年ちかく温めたこちらのインスパイア小説。
大本命のこの曲、大本命のhomecomingsとなると、なかなか筆が進まない。
ようやく書き上げることができました。
と言っても、いつものようにライトな作品です。
この曲は誰かの日常に寄り添い、そっと光を届けてくれるような、そんな曲だと思っています。
homecomingsのストーリーテラー、福富さん自身も同じような想いで作ったとインタビューでおっしゃっていました。
私自身、自分はどこにいるのだろう、誰なんだろう。そんな風に毎日毎日大衆に紛れて暮らしていた時、この曲を聴いたら目の前の景色が色づいて、(モノクロだとしても)今ここに自分が立っているんだと感じられるような気持ちにいつもなっていて、まさに日常に寄り添ってくれるお守りのような存在でした。
そんなイメージを表現したくて、このような形になりました。
ちなみに最後のシーンはMVと重ねています。
この素敵な想いと、世界観をまるっと表現したくて。
ちなみにちなみに、日常の舞台は京都です。
オフィス街である烏丸辺りから烏丸通を南に向かって歩くと、ずっと京都タワーが目の前に見えています。まるでみんなの目印のように。
私の、子供ができる前までの帰宅ルートでした。
京都を歩くとくるりとかホムカミとか、京都のバンドを聴きたくなる不思議。
エモい街です、ほんとに。だいすき。
そんな想いなんかも込めて。
誰かに少しでも何か届きますように。