だれかさんになれる秋
涼しくなりましたねー!
という挨拶が飛び交うようになった。
ネット上でも、秋が来た喜びを発信している方が多く、
「もう来ないと思っていた!」
とか、
「やっと来てくれたのね!」
などなど、まるで光源氏の恋人のような立ち位置で、皆さん秋を向かい入れている。
秋、モテモテである。
ここまで夏が暑くなかった頃は、夏の終わりはもっとセンチメンタルなものであった気がする。だが、最近は長っ尻すぎるせいで、夏は居酒屋でだらだらと酒を飲み続ける酔っぱらいのようになってしまった。
鬼平犯科帳の「鬼火」という回で、
『酒は五合まで 肴は有合わせ一品のみ』
という看板札が下がった料理屋が出てくるが、長っ尻の夏にもわかるように、
『気温は三十度まで 猛暑日は彼岸までに一日のみ』
という札を掲げておきたいと思うのは、連日の酷暑にとことん苦しめられてきたからだろう。
ぎりぎりまで暑いせいで、私はここ数年、忍びよる秋の足音を気のせいだと思うようになってしまった。ちょっとした涼感が肌を触ったくらいでは信用できない。これまでも、涼しくなった翌日に猛暑日 なんてことが幾度もあった。糠喜びするくらいなら、いっそのこと、その足音に気づかぬほうが幸せではないか、などと思ってしまう。
長い夏は、私に疑心暗鬼という感情を植えつけてしまった。
私は、多くの人たちが
「涼しくなりましたね」
と言い始めるまでは何も言わない。
涼しいかもしれないけど気のせいだと疑り、半袖短パンのまま、肌寒さを信用することなく、まんじりともせず黙っている。
ちなみに今も私は、短パン半袖の出で立ちで足の爪先を冷やしている。
そもそも春夏秋冬4つの季節の中で、秋というものは一番、到来がわかりにくい季節だ。
春は蝋梅が咲けば、おお、そろそろだなと思う。
夏は承認欲求強めのインフルエンサーの如く、4月の末あたりから「すぐにそっちにいくからね」とでも言いたげに、ちらちら暑さを匂わせてくるのでうんざりするが、冬は落葉が風に舞うのが訪れの合図になっているのでわかりやすい。
しかし秋は、こうはいかない。
気づいたときには大体深まっている。振り返れば秋がいる。いきなりいる。これは近年の夏の猛暑のせいだろうと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
ところで、『ちいさい秋みつけた』という歌をご存知だろうか。
作詞はサトウハチロー。
映画にもなった『九十歳。何がめでたい』でもお馴染みの作家・佐藤愛子さんのお兄さまである。
冒頭の歌い出しはこんな感じだ。
この歌詞を見れば見るほど、秋の訪れがいかに繊細で気づきにくものなのかを示しているように感じる。
秋というものは、自分では見つけられない。
自分以外の《だれかさん》が見つけてくれるからこそ、やっと秋は訪れる。……そんな気すらしてくる。
だとすると、私の《誰かが秋を宣言するまで黙って待つ》というスタイルは、あながち間違っていないのかもしれない。
この『ちいさい秋みつけた』の歌詞の中には、あらゆる秋の姿が投影されている。
歌詞の1番には、鬼ごっこをする子どもたちの声に混じって百舌鳥の声が聞こえ、2番では、北向きの部屋のガラスがミルクのように白く曇り、隙間から風が洩れる。3番は、古びた風見鶏の鶏冠に、紅葉した櫨の葉が一枚、引っ掛かっているのだ。
百舌鳥の声に端を発し、どんどん秋が深まっていく様子がわかる。指標、という言葉があるが、この『ちいさい秋みつけた』は、近年、実感しにくくなってきた短い秋を、しっかり感じ取るためのテキストのようでもある。改めて眺めてみると、味わい深い素敵な歌詞だ。
《だれかさん》が見つけてくれるまで、頑なに秋を待っていた私ではあるが、『ちいさい秋みつけた』の歌詞を思いながら、自分が《だれかさん》になってみるのもいいかもしれない。やっとそんな気持ちになってきたので、そろそろ私も、短パンを長ズボンに穿き替えようと思う。
この『ちいさい秋みつけた』を元ネタにしたギャグアニメを見て、いろいろ秋に思いを馳せてしまいました。(3分未満の短いアニメです)。
佐藤愛子さんもお元気ですが、草笛光子さんもお元気です。