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死ねってホントに思ってますか?

 私のかつての知人に、何かというとすぐに
「死んだらいいのに」
「死ね」
「マジで、殺したい!」
 そんなことを言う子がいた。
 彼女は人並みに気遣いもできる子で、特に問題行動もない。でも彼女は、何か気に入らないことがある度に、《死》を絡ませる言葉で、その場にいない誰かを罵ることがあった。

 私はその言葉を聞く度に嫌な気分になり、
 ……こういうことを言わなければ良い子なのになぁ。
 と思うことが多々あった。
 でも、それを咎めることができるほど、付き合いは深くない。
 下手に注意して、《死ねばいいのに》という思いが、こちらに向けられるのも嫌だったので、いつも私は彼女の悪態を聞き流すことにしていた。

 その子も私も、1993~2000年あたりに青春期を過ごしている。今では社会的に完全にアウトになるような表現や演出が、メディアにあふれていた時代だ。

 テレビのバラエティー番組でも、普通に
「死ね」
 という言葉が、ツッコミとして使われていたし、番組内でのおふざけが過ぎて収拾がつかなくなったとき、
「おまえら殺すぞ!」
 なんて言葉が、場を収めるために使われることもあった。

 私自身も、そういった際どい表現をする《お約束》的な笑いを見て、皆と同じように笑っていた。でも内心、それを笑うことへの後ろめたさも感じていたような気がする。

 罪悪感を抱きつつも、つい笑ってしまう。

 この相反する気持ちを《楽しむ》空気が、当時の日本にあったのかもしれない。事の善し悪し関係なく、そういった状況が面白いと認知されれば巷にも、その空気は蔓延はびこっていく。

 テレビの中で作られている《面白いもの》は、日常ではない。非日常であり、テレビの中だけで成立するものだと私は思っている。
 だが、それを念頭に入れ、意識し続けることは難しい。流行語のように「死ね」だの「殺す」だのという言葉がテレビの中で飛び交えば、日常で使うようになる人が出てくるのも当然のことだ。例の口の悪い彼女も、そのうちの一人だったのだと思う。

 だがあるとき、彼女は口うるさく注意してくる自分の母親が疎ましいと話した後、何のためらいもなく、こう言い放った。

「あのババァ、死ねばいいのに」

 他人ひとの親子関係など、傍から見てわかるわけもない。冗談を言いながらも、本気でそう思って口にしている場合もある。でも、このときはさすがに、

「死ねってホントに思ってるの?」

 と、訊きたくなった。
 だが私は、喉元まで上がってきたその言葉を口に出すことなく、いつものように、彼女の言葉を聞き流してしまった。

 やがて、私はその子と会うこともなくなり、かろうじて年賀状が互いを行き交うだけになった。

 その年賀状がある年、ウェディングフォトになった。
 結婚したんだなぁと思った翌々年には、年賀状は赤ん坊の写真に変わり、その子が幼稚園に上がる頃には、隣に赤ん坊の姿が加わった。

 彼女の子供たちは、年を追うごとに年賀状の中で大きくなり、その子たちが小学校に通う頃には、前年に出かけたであろう旅先の家族写真が、年賀状にプリントされるようになった。

 幸せそうな家族の様子はとても微笑ましかった。
 今後も健やかに過ごしてほしいと思うと同時に、私の胸にはつかえるものがあった。

 それは、二人の子供を産んだお母さんでもある彼女が、
「死んだらいいのに」
「死ね」
「マジ、殺したい!」
 そんな悪態をついていたことを、この耳で聞いて知っているからだ。私自身に向けられたわけではないのに、若かりし頃に彼女が口にしていた言葉を、私は忘れることができずにいた。

 彼女は決して悪い子ではなかった。
 口は悪かったけれど、周りを笑わせてくれる楽しい子だった。
 それなのに、私の耳の中に残るのは彼女の「死ね」と罵っていた言葉なのが、どうにも悲しい。なぜ私は、

「死ねってホントに思ってるの?」

 そう彼女に問うことができなかったのだろうか。他人が発した言葉の責任まで取る必要などないのだろうが、そこまで気にしていたのなら、やはりあのとき、何か言うべきだったのかもしれない。

 今、ごく限られた恩師やお世話になった先生くらいにしか年賀状を送っていない。それもあって、年賀状だけでつながっていた彼女とも、もう付き合いはない。

 だが、それでも彼女の発言を、良くないと思いながらも聞き流してしまったことは、私の中で、未だに小さな疼きとなっている。

 




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花丸恵
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