私は「私」に嫉妬する
私の心は醜い。
北村薫著「六の宮の姫君」を読むと、毎回、そんな思いにさいなまれる。それなのに、そのクリーム色の背表紙に書かれた「六の宮の姫君」の文字を見ると、つい手にとってしまう。
「六の宮の姫君」は、女子大生の「私」と落語家の春桜亭円紫が、日常の謎を解いていく、円紫さんと「私」シリーズの4作目だ。
大学4年生になった「私」が、芥川龍之介の作品「六の宮の姫君」に隠された謎について解き明かしていく。
主人公の「私」は、読書家だ。とにかく、よく本を読んでいる。
家族構成は、両親、美人な姉。
父親の愛情を巡って、姉妹間で気まずいところがあったようだが、それが大きな問題を引き起こすわけではなく、いたって普通の家族である。
友人は主に二人。
凛々しく強い女性の高岡正子こと、正ちゃんと、
おっとり穏やかな江美ちゃん。
実にバランスが良い友人関係といえる。
そして何よりもこの主人公は、登場人物の落語家・春桜亭円紫しかり、実に魅力的な大人に囲まれているのだ。その大人の多くが、少し特別な子として主人公を見つめている。
何というか、目をかけてもらえている。
大学の教授に出版社のアルバイトを紹介され、そこで働くうちに、主人公は、就職活動することなく、なんと、狭き門である出版社への就職を決めてしまう。
アルバイト先の出版社の女性社員に
「あなた、どこか就職の当てはあるの」
と聞かれ、主人公は「どきり」とする。
「うちで、やってみる気はない?」
と言われ「更に更に、どきり」とするのだ。
私は、この「更に更に、どきり」という一文を見ると、本を投げつけたくなる衝動に駆られる。もちろん実際投げたりはしないが、焼けるような嫉妬を感じてしまう。
なぜ、こんなにも、この主人公は恵まれているのか。
まるで、何の苦労もなく、すいすいと人生を歩いているように見える。だからといって、世間知らずで性格が悪いということはない。心の機微のわかる、とても良い子だ。
しかも近所の子供曰く、そのご尊顔も、よく見れば美人らしいのだから、これは手強い。彼女にないのは、恋人の存在くらいに思えてくる。
背筋の伸びたまっすぐな人が放つ光は、時にまぶしすぎて、こちらの目を潰してしまう。心の影が浮き彫りになる。
私は大きなため息をつく。
うらやましい。
この子になりたいとすら思ってしまう。
清い水を飲むように本を読み、その水は主人公の全てを満たしている。よりよい人生を歩むのに、苦労など必要ない。ただひたすら自分で自分を潤し、満たし続ければよい。
彼女にとってそれは読書なのだ。
本を読み、知識を得て、感性が磨かれ、それが大きな引力になる。主人公は、その引力に引き寄せられているだけなのだ。
この作品は文学の泉のような作品だ。
ありとあらゆるところから、様々な作品、作家が登場し、こんこんと湧き出てくる。その水は飲めば飲むほど美味しい。作品から作品を渡り歩き、近代作家たちの若き日の輝きを垣間見る時間は、確実に自分自身を潤すことができる。
本を投げつけてしまいたくなるような強い嫉妬。
醜い、どろどろした、自分でも目を伏せたくなるような部分だ。私は、そんな自分を否定し続けなければいけないと思っていた。しかし、別に、主人公に嫉妬してもいいのではないか。
どうせヤキモチを妬くなら、美味しく妬きたい。
嫉妬も、この本が見せてくれた私自身の片鱗なのだ。その感情を受け止められるのは、自分しかいない。きちんと受け入れて、手放し、本当の自分を生きたい。
自分で自分に水をやる。読書とはそういう行為なのかもしれない。
自分を満たし続けるために、私はたくさんのページをめくっていきたい。