パリで養子を考えるまで(4)
卵子提供による体外受精
初めて体外受精を行った2017年11月から1年後、私たちは妹から卵子提供を受けて体外受精を行うべく準備を進めていました。ヨーロッパでは匿名の卵子提供が推奨されているため、つながりのある人がドナーなることを受け入れている国は少数派です。卵子提供のメッカであるスペインでは匿名ドナーに限られるため、私たちが選んだのは、ベルギーのブリュッセルにある大学病院でした。
妹の物理的な負担を考えると、日本での卵子提供による体外受精も検討しましたが、さまざまなハードルがあり断念。インターネットで調べたり、日本の不妊治療で有名なクリニックに問い合わせところ、妹からの卵子提供を受けるのは不可能ではなさそうであったものの、日本に在住していなく、特に夫が日本語で心理カウンセリングを受けられるほどの日本語力がないことで対応してもらえる医療機関がありませんでした。
一方、ブリュッセルの大学病院は、各国から診療が受けられる体制になっており、まず英語で説明・カウンセリングが可能であったこと、採卵の直前までは遠隔でホルモン剤の指示を出してくれることから現実的になりました。日本で婦人科系の検査などを済ませ、妹の配偶者が卵子提供に了承している旨のサインなどもあわせて、英訳して提出。妹には弾丸ツアーで事前に一度フランス・ベルギーに来てもらい、ブリュッセルの病院でカウンセラーと面談が行われました。その時には、妹は卵子を提供したのちに親権は主張できないことなどや、卵子提供について、生まれた子供や周りの人たちへどう話すべきかなどの説明がありました。
妹の渡仏
2019年の春、妹が卵子提供のために改めてパリにやってきました。妹の家族にも協力してもらい、1歳の娘を義両親に預け、3歳の息子をパリに帯同しての渡仏。私たち姉妹のプロジェクトなのに、妹の義両親のほうが子供好きなことに甘え、とにかく、妹の家族の寛大な協力を受けて実現したプロジェクトでした。
日本を離れて7年、久々に妹と過ごす時間は濃密で、初めて一緒に生活する甥っ子もかわいくとても楽しい2週間でした。一日おきくらいに有給をとり、妹と甥っ子とパリを満喫しながら過ごしていました。こどもがいる生活を初めてリアルに感じる経験でした。パリにいても子供がいなければ行かないスポットがたくさんあり、見せるもの体験するもの感情いっぱいで応えてくれる甥っ子は本当にかわいらしく、私にも夫にも思い出深い期間になりました。
同時にブリュッセルの病院で指示を受けた通りにホルモン剤を投薬し、採卵サイクルが始まりました。この期間はパリで普通に生活をしつつ投薬し、採卵の前日から一泊二日でブリュッセルに行く段取りです。私がお世話になっていた不妊治療の医師からは、匿名ドナーを推奨されていたので妹から卵子提供を受ける際のサポートをしてもらえるか不安でしたが、すんなり了承してもらえ、この投薬期間は処方箋やエコーなどのサポートをしてもらいました。
途中、妹が風邪を引いたり、夜ふかしをしたりして、卵子の成長に影響がないかハラハラしていた私を横目に、妹からは10個ほどの卵子がすんなり採卵できました。1年かけて受精卵が1つしかできなかった自分と比べて、こんなにもスムーズなのかとびっくりしました。
「この年齢でこの回数採卵をトライしていれば普通は妊娠している」私に戦力外通知をした医師が言っていたことの意味が、すっと納得できた瞬間でもありました。そうか、普通だったらこれくらい採卵できて当たり前なんだ。これが健康な母体なのだな、と。
妹と甥っ子はその数日後に帰国し後日、複数の受精卵になったとの知らせを受け、妹が帰国したのちに移植のプランニングをはじめました。
50%の確率で妊娠?
2019年5月に最初の受精卵の移植。健康な卵子で体外受精をすれば50%の確率で妊娠するという話を聞いていたので、きっとこれでうまく行くだろうと期待していました。2回に1回妊娠すれば、二人こどもができます。しかもかわいい妹の卵子。親を辿れば同じ遺伝子なわけだし、何もかもが丸く収まるような気がしていました。
しかし、5月の移植では受精卵は着床せず、気分転換のためにブルターニュ地方の海辺で数日を過ごしました。その時に次のようなメモを残していました。
このあと、7月に行った2回目の移植でも妊娠に至りませんでした。その年の夏休みは南仏やブルターニュ地方でのんびりとしながら、私たちはそれぞれこどもを持つということを、お互いぼんやりと考えていたと思います。
少なくなっていく受精卵。そんな中、夫から少なくとも養子縁組について調べてみよう、という提案がありました。この頃から私たちは、子供がいなかったらどんな人生を送りたいかなども話し合ったりすることがありました。
初めて婦人科に行ってから2年が経ち、かなり高度な不妊治療を試しても私が妊娠する気配はなく、そんな中で私たちは絶望しないためのプランBが必要だったのです。
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