『人体欠視症』と『未完の美』について
こんにちは。
世界中には様々な奇病があります。その一つ紹介します。
『人体欠視症』
この病は、愛する人の身体が見えなくなる病気です。非常に恐ろしい病気ですね。他の瑣末なものは見えますが、愛する人だけが見えなく鳴ってしまうのです。
もし、自分が罹患してしまったと考えますと、生きる意味を見失うかも知れません。多くの人がそうでしょう。
ここで本題に。
人体欠視症とはは川端康成先生の『たんぽぽ』の未完の小説に出てきます、病名です。医学的な病名ではなく、恐らくは川端康成先生の造語です。恐らくは。もう一度繰り返しますが、恐らくは。
小説のあらすじとしましては、罹患した女の子を病院へ預け、その帰り道に、女の子の母親「未亡人」と女の子を愛する男との物語です。二人の会話が丁寧に綴られていまして、男と女の違いや、文化的違い、素性の違いが、語られます。
川端康成先生が昭和39年から断続的に書かれていましたが、とうとう未完のまま逝去なされました。何処かの世界で、お話の続きを書いていらっしゃることだろう、と勝手に思いを馳せます。
人体欠視症・・・。愛する人を見えなくなる病名。発想そのものが川端康成先生らしいと感じます。
「女は決して嫉妬するものじゃありませんよ。決して男のひとを疑うものじゃありませんよ。つい私はそんなことを言ってしまったんです・・・」
人体欠視症を患った娘の母と娘を愛する男の会話です。
ほんの一部ですけれど、抜粋しますと、何故ん雰囲気です。更に、人体欠視症を患った女の子の父は、戦争で義足となり、敗戦後、女の子との騎馬旅行で崖から落下し他界しました。このように、時代を切り抜いた付箋の数々があります。
たんぽぽの小説は、非常に時代を象徴していると感じます。なんでしょうねえ。色濃く根付く時代の象徴。それは勇猛感とも悲壮感とも、又、日本古来の伝統の一幕とも。
男尊女卑が良いのか? 女尊男卑が良いのか? という議論はさておきまして、時代の傍観者の一人である川端康成先生の思想と文芸の産物が、未完のまま世に放たれてしまったのです。
なぜ、『しまったか』という表現を使うかと申しますと、川端康成先生の愛読家としましては、結末が気になって仕方がないのです。そうですね、喉に引っかかった魚の骨のような。僕はその一人。
現時点では『未完の美』と称しましょう。
生きとし生けるものは必ず死を迎えるわけですが、もしやり残したことがある中での死とはどういった意味合いを持つのでしょう。
欲深な僕は、筆舌しがたいものがありそうです。
ですが、文章を書き進めるスピードには限界があります。まあ、文章問わず、肉体に束縛されている以上、物事には限界が存在しているわけです。
遠いようで近い将来です。もし、やり残したことが出来てしまったのなら、『未完の美』と称しましょう。
最後に・・・。
マハトマ・ガンディーは言いました。
Learn as if you were to live forever.
明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ。
花子出版 倉岡