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【小説】対岸の二人

第6回阿波しらさぎ文学賞 一次通過作品

対岸の二人


八年間、働いた銀行を辞めてきた。ずっと悩まされてきた歯痛に耐えかねて、知らない街の歯医者に駆け込んだときみたいに。

「しばらく家でゆっくりすることにしたけん」

連絡も寄こさずに神奈川から実家に戻ってきた娘に対して、母は鳩が豆鉄砲でも喰らったように
「ほれはかんまんけんど、……あんた仕事はどないしたん」
と、顔全体にフェイスパックを貼り付けた白塗りのお化けみたいな恰好で尋ねた。網戸越しに庭へと視線を向けると白柴の太郎が、怪訝そうな目で私たちを見つめている。白塗りの母と、早朝に突然押しかけてきた迷惑な娘。つやつやとした黒飴のようなつぶらな二つの瞳の先に居るのは、どうやら私の方だったらしい。夜行バスでは思うように寝返り一つ打てなかった。窮屈な姿勢で夜を越した名残が、身体の節々に残っている。学生の頃は味わうことのなかった関節の悲鳴を聞き、自らの老いを感じた。リビングの中央に位置するファブリック製のソファーへ腰をおろす前に、靴下を脱ぎ散らかすとひんやりとしたフローリングの冷たさが素足に伝わってきた。
大丈夫だ、事前にシミュレーションはしてきたのだから。小さく息を吸って、食後に近所のコンビニでアイスでも買いに行くときのように、淡々と伝えた。
「うん、きのうやめてきた」
白塗りを直視することができず、倒れこむようにソファーにダイブすると数秒の間があいたのち、足首に突然ぬめっとした冷たいなにかが飛んできた。物理的攻撃とは、このことか。抗議の視線を白塗りに向けるが、おでこを丸出しにした元・白塗りは、不愉快を剥き出しにしていた。
「結生(ゆうき)、あんたふざけとるんで」
壊れた湯沸し器のように冷たい温度を保ったまま、怒りのボルテージが加速する。私が想定していたよりも、母は冷静だった。しかし冷静さを保ったままの怒りは、どうして、より人を傷付けるのだろう。逃げ場を追い求めてきて帰った場所で、さらに追い詰められてしまう。母の詰問から少しでも逃れようと重い腰に鞭を打ち、「なんも知らんくせに酷い言い方やな。そんなんやから、お父さんに捨てられたんじゃわ」と、的確に相手を攻撃する言葉を残して自室へと駆け込んだ。
高校生三年生を最後に、主を都会へ見送った部屋は一八歳のまま時が止まっていた。『絶対合格』と拙い字で書いた半紙、HRの時間割表、クラスメイトに借りたままの文庫本。合格祝いに、母と二人で北海道へ旅行に行ったときの写真。フレームの中の私たちは、少しだけ気恥ずかしそうだった。シロクマのパネルの前でぎこちない笑顔を浮かべている。誤って真っ白な紙に落としてしまった一滴の墨汁のように、じわじわと罪悪感が広がっていった。母は、かつて父だった男性の不貞が原因で、私が七歳の頃に離婚している。これ以上、自分の傷口を広げられないために最低な言葉で、その事実を揶揄してしまった。私は、馬鹿だ。底なしの馬鹿だ。母に対して、どう伝えれば正解だったのだろう。八年間、働いていた会社を辞めた。これは今更になっても変えられない事実だ。しかし、全貌についてすべてを包み隠さずに話せるようになるには、度胸が足りていなかった。既婚者に恋をして、でもそれがうまくいかなくて。あの人と同じ職場にいることが辛くて辞職したなんて。言えるわけない。こんな低俗で、稚拙な理由。きっと、母を失望させる。大切なひとを失ったいま、また一人を失うわけにはどうしてもいかなかった。

 白塗りの攻撃を足首に受けてから二日。良く晴れた日に、突然叩き起こされた。
「はよ、起きない! 今日は出かけるけん」
母は、筋金入りの頑固者だ。布団を頭まで被って抵抗の意思を見せたとしても、一度こうと決めたからには他人の意見は通用しない。行かない、という娘の意思は歯が立たなかった。理不尽に憤る気持ちと、母の剣幕、昇華しきれていない罪悪感が私を後部座席へと押し込んだ。
フロントガラスを隔てた青空は、きっと室戸岬くらいまでは続いているだろうか。曇りのない空の色を見上げても、燻ぶった気持ちは一向に晴れなかった。
「後ろの席、酔わへんで? 少し窓開けとくわな」
運転席の窓を半分ほど開けて、勝浦浜橋の信号で止まる。息が詰まりそうな重苦しい雰囲気のなか、新鮮な空気が有難かった。梅雨があけたばかりの空は、雲一つなく澄みきった水色がどこまでも伸びていく。梅雨の雨粒を吸って草木が生い茂る土手沿いでは、耳の垂れた白い犬をつれた老婦人が長閑に散歩をしていた。
「言っとくけど、お母さんはあんたを責めたいわけとちゃうけん。そこは誤解せんといてよ」
バックミラー越しに母の気配を感じたが、あえて私は気付かないふりを選んだ。イヤホンを取り出して、居心地が悪い空間から心地よい音楽の世界へと身をゆだねる。アルバムが次のトラックに切り替わった瞬間、かつて小野田さんが好んで聞いていたバンドの曲が甘い思い出とともに耳を支配した。

なにごとも始まりよりも、終わりの方がエネルギーを使うという。しかし、それは社会的なことではなく、個人的なことに限るのかもしれない。就活地獄からやっとの思いで抜け出して、八年間勤めてきた銀行は、すんなりと私を外の世界へ放り出した。
「あの噂、本当だったんだ」
体調が悪く、思うように仕事を続けられない。そう直属の上司に伝えたら、薄々私たちの関係性を不審に思っていた彼女からは引き止める言葉もなく、好奇心を剥き出しにした様子で、本社の人事担当へと繋がれた。新卒のときに配属された茅場町支店から、神奈川にある青葉ヶ丘支店へ異動になったのは、三年前の話だ。水が合わないという言葉は、こういうときに使うのだろう。新しい支店の同世代の社員とは、どうも波長が合わず職場のなかでも年齢が一番下である私だけが浮いているような気がして、馴染むことができなかった。そんなときだ、副支店長の小野田さんに声をかけられたのは。
「結生、ほら。着いたでよ」
ローソンを左折してしばらくすると、見覚えのある海岸が一面の緑とともに姿を現した。私が子ども時代に、『おおみこ』と気安く呼んでいた場所は日峰大神子広域公園という立派な名前があるらしい。名前ばかりが仰々しいそこは、大人になって周囲を見渡すと単なる田舎の廃れたバーベキュースポットだという印象を受けた。無言を決め込んでいた息苦しい車内の空気から一目散に抜け出すと、駐車場のアスファルトを跳ね返す熱がじりじりと太腿を蒸した。すぐ手が届くところに海が見えるのに、潮の匂いや髪がべたつくような湿気は存在しない。かつての夏に、小野田さんと二人で行った七里ヶ浜とはなにもかもが異なる。白い砂浜と、青い磯の匂いが鮮明に蘇った。
「いつか結生が生まれた徳島の海も、二人で見に行けるといいね」
その”いつか”は、きっともう永遠にこない。

大きな保冷バッグを持つ母の後ろに続いて公園の方へと進むと、風に乗って香ばしい醤油の匂いが髪に纏わりついた。匂いの先では、小学生くらいの男の子と、父親がアルミホイルに乗せたおにぎりを焼いている。母親と思しき女性が、給水所から洗いたての人参を持った手を大きく振っていた。どこにでもいる普通の家族のかたちを見てズキンと胸が痛み、現実から目を背けるように視線をそらした。
「醤油のええ匂いやな、うちも久しぶりにお弁当作ってきたでよ。上まで行ったら食べような」
三度目の罪悪感が、胃の底から喉元へと這い上がってきた。後ろ暗さを小脇に抱えたまま足場の悪い山道を登ると、木製の階段の段数が増えるごとに息が荒くなり、大粒の汗が額を濡らした。階段を超えた先には、緑に囲まれた広いピクニックエリアがあり子ども向けのアスレチック遊具が飛び出してきた。水色と黄色が折り重なるようにして作られたローラー滑り台を見て、お尻が熱くなるような感覚が脳裏をよぎる。他人のお弁当の匂いと、子どもたちの歓声が交じり合った空間の中で眠っていた記憶が息を吹き返した。かつて、私はこの場所に来たのだ。母と二人で。
「良かった、ここは日陰になっとるわ。そろそろ食べようか」
アスレチックゾーンを抜けると、母は日陰になっている焦げ茶色の東屋を指さした。背の高い樹木に覆われ外の暑さから隔離された場所は、図書館のようにひんやりとした静かな時間が流れている。屋根を潜り抜けると、囲まれた緑のどこかから蝉の鳴く声がした。
保冷バッグから真四角のお弁当箱を取り出すと、そこには私がかつて好きだと言ったおかずが敷き詰められていた。蓮根と豚肉のきんぴら、人参と南瓜の煮物、甘い玉子焼き、鮭のバターソテー、一口サイズのウインナー。大野のりを巻いた俵型の小さなおにぎり。ちゃぷたぷ、と音をたてる麦茶の香りが、忘れていた食欲を刺激する。箸を割ると、今まで満たされなかったすべての穴を埋めるみたいに、夢中になって目の前の食べ物を詰め込んだ。コンビニで買ったパスタサラダや、スーパーのお総菜、七里ヶ浜で食べた朝食のパンケーキとは違う。手軽さも、非日常も、特別感だって存在しない。けれど、素朴で一生忘れたくない味が、幸福の温度を保ったまま胃を滑り落ちた。
「酷いこと言って、ごめん」
手作りの優しさを丸ごと食べつくすと、自然と謝罪の言葉が口を衝いた。母は父に捨てられたのではない。父親の役割を放棄して、若い女に入れあげた彼を切り捨てたのは、母親としての役目を優先した判断だった。小野田さんが、私に対して恋人以上の役割を求めていなかったことと同じだった。
「いったい、何があったん」
見失っていた言葉のきっかけを取り戻すように、背筋を正して母に恋人のことを告げた。
「好きな人がおったんやけど、その人、既婚者やったんよ」
新しく赴任した支店で同僚たちに馴染むことができず、そこで優しくしてくれた相手が副支店長の小野田さんだった。小学生になる長男が一人いるが、出産を終えてから夫とは不仲になり夫婦関係は破綻している。そう打ち明けた彼女と、一人ぼっちで居場所を見つけられなかった私が、特別な関係になるまで多くの時間はかからなかった。銀行という男社会で、子育てをしながら社会的地位を得た彼女はとても輝いて見えた。幼い男の子から、母親を取り上げる気持ちなど最初から持っていない。けれど、そういった事情を抜きにしても私と小野田さんの間には、年齢や性別の垣根を超えた恋人同士の愛情という切れない絆が残ると愚かにも信じていたのだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。主人の意向もございますので、そのまま退職させていただく予定です」
先月の朝礼で小野田さんが第二子を妊娠し、秋頃から冬にかけて産休を取った後に銀行を離れることが伝えられた。繁忙期を前にした発表で、男性行員からは乾いた拍手が鳴り、女性たちは作り笑いを浮かべてお祝いの言葉を述べている。第二子の妊娠。私の恋人である以前に、小さな男の子の母親であり、顔も知らない誰かの妻であるということ。ずっと目を反らしていた現実を、同僚たちが拍手を送る朝礼の場で突きつけられた。
「それはあかん。それは、あかんわ」
こんなに近くにいるのに、母の声色からは感情が読めない。居た堪れなさに支配され、勇気を持って表情を見ようと顔を上げる。すると、目の前の母は大切にしていた古い宝物を、知らない人に取り上げられた子どものような表情を浮かべていた。
「相手の男の人にも、家族があって、奥さんがおるんよ。人の家庭を壊すようなこと、あんたまでしてどないするん」
母が、私と誰を重ね合わせているのか、考えなくても分かることだった。
違うよ、小野田さんは女性なの、と喉元まで出かかった言葉を寸前のところで飲み込む。力んで噛みしめすぎたせいで、心よりも奥歯の方が痛んだ。「とことん、傷付いたやろ。ここ」
薄い胸元をノックするように指の腹で叩かれる。真正面から見下ろした母の表情は、笑顔を浮かべているがその柔らかさが痛々しい。もう、一切の痛みを感じることがないように。そのために私は、徳島に戻ってきたはずだった。失恋の痛みとは少し違う、新たに生まれた刺すような胸の疼きから逃げるため、目の前の空虚へと手を伸ばす。縋りつくように皺の折り重なった指先に触れると、母は躊躇ったのちにその手を振り払った。拒絶されたのだ、私は。自分の母親に。すべて自分が蒔いた種で、責任の所在は私にある。それでも、母に拒絶された事実が受け入れられず、死角から鈍器で頭を殴られたような心地がした。

「ほんまに阿呆やな、あんたは」
呆れたように力なく言葉を洩らすと、母は私の上半身を覆いつくすようにすっぽりと抱きしめた。一年に一度、顔を合わせていたはずなのに、薄っすらと記憶に残っていたユーカリのコロンの匂いに懐かしさを覚えた。目の前の母は、私の記憶に存在していた頃よりも遥かに小さい。けれど、抱きしめられた温もりはあの頃のままだった。愚かな自分が、間違いだらけの恋に惚けていたうちに取りこぼしてきた物の大きさを知った。
「どれだけ好きやったとしても、好きになる相手を間違ったら絶対にあかん」
かつて七歳の私が、母とこの場所を訪れたときに「もう帰ろう」と伝えても、あと少し、もうちょっとだけ、と。海の遥か先にある遠くを見つめて、頑なに駐車場の方へ戻ろうとしなかったあのときと同じ瞳をしていた。

いつの間にか、対岸にいたらしい。
込み上げてきた後悔の念を追うように、歯茎にすっぽりと埋まっていた左上の親知らずが、にょきっと顔を出して痛みを伴った。


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