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小さな死と虚無感と無力感

2021年9月7日ひとつの小さな小さな命がなくなりました。
私の甥っ子になるはずだった小さな小さな命です。

そして2021年9月14日は小さな葬儀の日でした。

義妹が運ばれたというメッセージを目にした時は、「え、何事…」という驚きが大半を占めていていました。そしてそこに心配が含まれていたのかを自覚できていませんでした。妙に冷静で冷酷な態度だったと思います。「義妹は大丈夫なの?赤ちゃんは?状況は?」って訊くこともしませんでした。そのセリフを発することで偽善的で演技的な自分であるような気がしたからです。心配しているのか自分に対して疑ってました。

振り返ってみると、状況を連絡してきた親にすぐ電話して、どういうことか経過を聞いたり、義妹は大丈夫かな泣いてないかな周りのことを気にしてないかなと考えてはいたので、客観的にみると心配をしていたようです。ただ心配していたという自覚が出来ていなかったんだなと思いますし、それを実際の態度に出すことを躊躇っていたんだなと思います。

両親は弟の後を追って義妹の運ばれた病院へ向かいました。私も行こうかと訊いたけれど、残業もしていて遅かったし仕事先から帰っていいと言われました。何が起こったんだろうと漠然とした思いしか巡らなかったけど、もやもやしたまま帰りの電車では眠ってました。

最寄り駅から歩いてる帰ること、誰もいない家に帰ること、1人で夜ご飯を食べること、全てがモヤモヤしました。いつもは駅まで迎えに来てもらい夜ご飯は作ってもらってあります。(アラサー実家暮らしのカホコです)ただこの日はいつもと違う。

ご飯を食べ終わって23時ごろ、これまた衝撃的なセリフとともにに、両親は帰ってきました。
「赤ちゃん産まれちゃった」
えっ、どういうこと。早産?ほんとうに?そんなことある?
先週会った時は何にもなかったよ?元気に話してたよ?
義妹は順調とさえ言ってました。

妊娠23週目以下の早産は助かる事例が非常に少ないようでした。
どうにか奇跡的に一命を取り留めないだろうかと思っていました。
しかし現実はそうではありませんでした。
子どもを産むというのは、本当に命懸けなんだなと。無事に生まれて生きていくことって当たり前では無いんだなと痛感しました。本当に痛いくらい。

翌朝、父から赤ちゃん亡くなったことを聞き、出勤しました。聞いたときは、「あぁそうなのね。ダメだったのね。」で、自分の感情をどう表現すればいいのか分かりませんでした。
泣けばいいのか、落ち込めばいいのか、怒ればいいのか、悔しがればいいのか。どうしたらいいのか分からず、「あぁ、そう」と、これまた素っ気ない、まるで興味無いかのような、態度になっていたように見えたと思います。

なんらかの感情表現は、周囲の人に、自分の気持ちを伝える1つの手段です。でも感情表現をしないと、何も思っていない人と伝わってしまうかもしれません。そうであるならば、私はきっと甥っ子が亡くなったのに随分と冷めた冷たい姉と思われてそうです。

<死>というものに会うと、どうしようもないものを感じます。
今までは虚無感だと思っていましたが、無力感の方が近いのかなとも思います。何も出来ないことに打ちひしがれて、込み上げてくる感情にも力は無いと悟り、結果的に何も感じていない態度になる(見える)ような気がします。
死という自然の中で一番に抗えない、逆らえない現象を人は受け入れるしかないのだなと、漠然とした大きな何かに従ってしまうのだと思いました。大きな何かは、自然という事象かもしれないし、神様かもしれないし、死神かもしれない。ただ、そこで人は無力になります。何もできず、泣き喚いたところで死から戻ってくることはありません。
この無力感を、無意識に感じた私は感情を出すことに意味を見出せず気恥ずかしさに置き換えているのではないかと思いました。
ただその死が、近しい人であればあるほど、感情が込み上がり表に出てしまう。なんだか今までの話に矛盾しているようなことになりました。
死者と過ごした時間の長さ関係性の深さは、無力感を上回る感情を連れてくるのかもしれません。理性だけでは片付けられない話なのかもしれないです。

まとまりがなくなってきました。

続きはコ口ナ禍で気になってしまった根拠の無い話です。
少しセンシティブなので公開設定処理しときます。


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