禁酒、断酒、節酒、厳酒
禁酒開始から10日が経過した。痛風患者の私にとって、酒は「百薬の長」どころか「万病の原因」。「毒」と同義だと言ってもいい。
痛風に襲撃された4か月前、私は人生初の本格的な禁酒に取り組んだ……というか、余儀なくされた。しかし喉元過ぎれば何とやらで、尿酸値の数値が下がるとともに再びダラダラ飲むようになってしまう。
ここが私の決定的にダメなところなのだ。酒に関しては「ほどほどに」ができないため、身体がSOSを出すまで徹底的に飲み続けてしまう。「週末だけは飲む」とか「家では飲まないけど、つき合いの場だけは口にする」とかができない。常に選択肢は「0」か「100」しかない。破滅へ一直線である。今回だって右足に違和感を覚えたからオロオロ慌てて禁酒を始めただけで、異変がなかったら何も変えようとしなかっただろう。
正直なところ、おそらくかなり酒への依存が進んでいると推測される。アル中なのではないかと妻から指摘されたこともあるが、私は専門病院に入院するような本物のアルコール中毒患者を目撃したことがあるので、軽はずみにアル中という言葉を使いたくない。あれは本物の地獄絵図だった。なにしろ自宅マンションのトイレまで行くこともままならず、小便はワンカップの空瓶に溜まっていく一方。外出時も目的地までの道中で酒の自販機を見つけると、我慢できずに買って飲み干してしまうほどなのだ。もはや完全な廃人ではないか。
アルコール依存には4段階があるという。すなわち以下の通り。
1)機会飲酒
2)習慣飲酒
3)精神依存
4)身体依存
私の場合、3)までは確実に進んでいる。4)かどうかは微妙なところだ。たとえば酒が切れて手が震えるとか、酒を飲まないと眠れないといったことは特にない。ただし酒をやめると途端に便秘になったり吹き出物が現れたりはする。これはつまり酒を飲むことが当然だと肉体が認識しているのだろう。
1年365日のうち350日くらいは飲酒する私にとって(しかもその休肝日15日は風邪で寝込んだり仕事で徹夜させられているだけ)、禁酒は最初の3日間が特にこたえる。逆にそこを乗り越えたら、「畜生、飲みてぇよ!」という飲酒欲求は徐々に軽減していく傾向があるようだ。まぁ飲みたいは飲みたいですけどね、10日経った今も依然として。
禁煙に成功したときもそうだったが、酒をやめるには「自分の脳を騙す」ことが有効となる。とにかく酒は敵であるということを強く認識するのだ。そして酒を飲んでいる人を見かけたら、「うらやましい」ではなく「無様で哀れな奴」と見下すようにする。たとえばテレビから酒のCMが流れてきたら、シャブ中の廃人を憐れむようにして当該タレントを蔑む。
実際、オリエンタルラジオ・中田敦彦も酒が身体にいいわけがないと自身のYouTubeで発言していた。だけどタレントたちはスポンサーの関係上、絶対それをテレビでは公言できないのだという。つまり何も知らずに無邪気に酒を飲んでいる一般市民は、メディア洗脳された情弱の豚ということに他ならない。せめて自分だけはそうならないよう、格調高く生きたい。その願いが今の私にとって最大のモチベーションになっている。
酒のない生活で困るのは、途端に食事がつまらなくなること。たとえば私が最近ハマっているものに「炙りマヨネーズ+肉のハナマサで売っているチューブ式アンチョビ」というものがある。これはゴリラ兄弟のパパがテレビで披露したのを観てミーハー根性丸出しで感化されたわけだが、冷凍ブロッコリーをレンチンしたやつとかウインナーにつけると、もうマジで気絶するほど悩ましいのだ。だけど同時にものすごく酒が飲みたくなる味でもあって、その葛藤に打ち克つ自信がないから食卓に出すのを躊躇してしまう。外食も飲みたくなるから避けるようになるし。
とにもかくにも酒を抜いて11日目の現在、できればこのまま禁酒日数を伸ばしていきたいと考えている。でも一生酒を飲まない「断酒」ができるはずはないし、またそうしたいとも思っていない。では、再び酒を口にしたときに自分はどうなるのか? ある意味、ここが本当の勝負所だと思う。田代まさしや清水健太郎みたいに堕ちていくしかないのか。それとも適度な節度ある酒とのつき合い方が今度こそ可能になるのか。「節酒」ないしは「減酒」できれば、それに越したことはないのだが……。
酒のことは昔も今でも大好きだけど、身体へのダメージを考えると距離を取るしかない。これはもう一種の悲恋。センチメンタルなロマンスである。こうなった以上とにかく強く望むのは、一刻も早く日本でも大麻が解禁されてほしいということだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?