
〖エッセイ〗「命を絶とうとした日の話。」
見出し画像のネックレスは、元は父が母へ送った婚約指輪💍だった。相当、奮発して買ったらしい。
母の形見として、私が受け継いだ✨💍を、リメイクして作って貰った大切な宝物だ。
私は毎日、身につけている。
母は亡くなりもう約30年になる。
詳しい事は下記を参考にして、頂きたい。
2024年9月10日、私は朝から死ぬつもりだった。
今までに2回のOD(薬の大量服薬)で、自殺を図った事がある。
当時は「自殺」という、つもりは無かった。
ただ心の中に「消えてしまいたい」「眼を開けていたくない」「楽になりたい」という衝動だった。
もちろん、ODではそんなにすぐに死ぬ事なんて出来やしない…。
私は病院へ連れていかれ、処置を受け、2日半ほど眠り続けていたらしい。
私は、今度こそは確実に死ぬつもりだった。
旦那と父親に、
「今までありがとうございました。ごめんなさい。○○(娘)をよろしくお願いします。」
とLINEした後、ぼーっとどうしたら確実に死ねるかを、考えていた。泣きながら。真剣に考えていた。
しかし、20分程した時、玄関のドアが開いた。父だった。
「はな…何を考えてるんだ。バカな事はするなよ…」と。
父がもう半分位、涙眼だった。
どちらも、しゃべらない時間かしばらく続いた…。
詳細は控えるが、しばらくして、私が思っている事、何があったのか…などを話始めた。
父は困った顔をしながら、話を聞いてくれた。
私は昔の事、育ってきた環境について、父に怒りをぶつけた。
凄い顔で睨み付け、こう切り出した。
「お母さんの、保険金、何に使ったん!?」
母には多額の保険金が掛けられて居た事を、私は親族から聞いて知っていた。
すると、父は泣きながら、
「…お父さんが、全部、遊びに使ったんだ。本当に申し訳ない。」と。
私は本当は父を責める気なんて無かった。
自分も大人になり、親になり、気づいた事がたくさんあったからだ。
私はすぐにこう答えた。
「…ごめんね。責めるつもりは無いんだよ。
お母さんが死んで、苦しくて、寂しくて。きっと私でもお金でその苦しさを紛らわしたと、思うから。あんな悲しい事があったんだから、無理もないよ。ごめんねお父さん…」と。
すると、父がもう一度泣きながら謝ってきた。
「本当に申し訳なかった。ダメな父親で…」と。
またしばらく沈黙が続いた後、父が口を開いた。
「お母さんはなぁ…人生の半分を病院で過ごした様な人だった。治らないかもしれないと言われても、諦めなかった…。それでも死にたいなんて言った事1度もなかった…。」
気が付くと、父も私も号泣していた。
父は続けて、こう言った。
「それでも、一生懸命治療して。治らないと言われた病気を治して…出来ないと言われていた、子供(私)まで出来て…どんな思いではなを産んだか…。それが、孫の顔までお父さんは見る事が出来て、嬉しいよ…」と。
私はもう涙をずっと流して聞いていた。
「○○(孫)の小学校での始めての運動会。
始めて、はなが作って来たお弁当を3人で食べて、『あぁ、幸せだなぁ』と思ったよ。」
娘の小学校での始めての運動会。
当時、私はシングルマザーだった。
寂しくない様に父を呼んで、3人でお弁当を食べた。
実は、私、前日から38℃の熱が出てしまい、それでも何としても、お弁当を3人で食べるんだという気持ちで、買い出し、下ごしらえ、調理をフラフラになりながらおこなったのを覚えている。
当日も熱は下がらなかったが、たった一人の親が行かない訳にも、いかないと運動会を見に行った。(コロナ前の話)
しかし、座っているのがやっとで、保護者行事や、保護者と子どものダンスなど、全て父が代わりに出てくれたのだ。
そんな、事を思い出しながら、泣いた。
父も号泣している。
「再婚もしようと、思った…。だけど出来なかった。はなが居たから。お父さんは…お母さんとたった10年しか一緒に居られなかった。だから…なんのアドバイスもしてやれなくて、それが切ない!」
と、声を詰まらせ泣いていた。
父は続けた。
「お母さんだって、死にたくて…死んだ訳じゃない…本人がどんなに…苦しかったか…切なかったか……。」
私は、
「…それさえ、無ければね。それさえなければ。人生は変わって居たのに。私が代われるものならばお母さんに長く生きて欲しかった…」
と、答えた。
すると、
「そんな事言ったって、仕方ない…だから。
生きる事を諦めるな!!」
と父は精一杯にそう言った。
父は続けた、
「また、はなと○○(孫)と一緒に美味しいものが食べたいよ…。はなが、そんな病気になって、日に日に悪くなって行くのが辛い。はなの病院の帰り、2人きりでもいいから、一緒に食べに行きたい。病院も毎回付き添って、何時間待たされても構わない。○○(孫)の迎えに頼まれれば、行ってやりたい。今はそれが一番幸せな事なんだよ…。」
と、泣いていた。
2~3時間程2人で泣いただろうか。
私は死ぬのを止めた。
父が帰った後、一人カミソリで左腕を切った。
自傷癖は、小学校の頃からある。
死ぬ為ではない。
むしろ、苦しみにケジメを付ける為に行うのだ。
そのあと、飲んでもいい最大量までの睡眠薬を飲み、休んだ。
人が死ぬという事は、人生を変える。
良くも悪くもなる。
私が病気に、なったのは、母からの
「お父さんとの時間を増やしなさい。
お父さんと、ちゃんと話をしなさい。」
というメッセージだったのではないかと、
その日、私は捉えた。