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池上彰は大統領選をどう見たか

日経新聞で、ジャーナリストの池上彰が大統領選の記事を書いている。

選挙直前に現地取材を行った池上が、大統領選に沸くアメリカの様子を伝えている。この記事自体は、どうやら大統領選の結果が出る前に書き上げられたようで、アメリカ社会の深刻な分断と二大政党制の行き詰まりを指摘して、本稿は締め括られている。

結果が(思ったより早く)出た現在となっては、時宜を得ない感じは否めない。選挙直前、バイデンの失言でトランプに勢いがついたが、トランプのチェイニーに対する問題発言が取り沙汰され、最終盤までまれに見る大激戦になったと池上はまとめる。ある集会でトランプは、共和党から離反してハリス陣営に合流したリズ・チェイニーを中傷して「彼女は自分に銃が向けられたら一体どう感じるだろうね」と発言した。これを民主党および主流メディアは(例のごとく)問題視し、「彼女に対する暴力を煽動するものだ」と激しく非難した。その経緯を、池上は次のように記述する。

激戦州アリゾナでの集会でトランプ氏は、反トランプのリズ・チェイニー元下院議員を「過激なタカ派」と断じ「小銃の標的にして、彼女がどう感じるか見てみよう」と発言したのです。まるで「彼女を撃て」と支持者にけしかけたようなものです。

(365)米国社会、二択で分断(日経)

気になったところを太字で強調した。まず、「〜と断じ」という何気ない表現について。これは、「実際にはそうでないにも関わらず、発言者の一方的な主観で勝手にそう決めつけられた」というニュアンスが込められた表現である。トランプは今回も相変わらず嘘をついているのだろうか。

リズ・チェイニーが過激なタカ派であるという評価は、トランプの臆断というより、広く世間に認められたいわば「常識」である。彼女はブッシュ政権で副大統領としてイラク戦争を推し進めたディック・チェイニーの娘であり、親子共に、リベラル干渉主義で対外戦争を好む「戦争屋」として知られている。

トランプの発言は、単に、反トランプで平和愛好的な正気の女性政治家に対する中傷ではない。むしろ反対に、チェイニーは好戦的で軍産と癒着した「腐敗的」な人物だという世評を下敷きにして、こういう発言がなされたと考えた方が自然である。空調の効いた部屋で戦争を決定して、アメリカの若者を死地に送りまくっている悪徳政治家も、自分自身に銃口が向けられたらさすがに兵士の気持ちが判るのではないかという皮肉なんだと。

こういう文脈は池上も知らないはずがない。実際に彼は、5年ほど前にこんな記事も書いている。

チェイニー親子の「きな臭い」バックグラウンドを踏まえれば、トランプが勝手に「過激なタカ派」と決めつけ、彼女に対する暴力をも示唆するような発言をしたというのは事実というよりかなり党派的に偏った解釈というべきであろうし、それ自体が池上の決めつけ(≠ファクト)なのではなかろうか。

百歩譲って、トランプがこのハイコンテクストな発言によって「彼女を撃て」と実際に煽動していたのだとしても、それは決して池上や主流の見解を安心させるものではない。なぜならその場合、「トランプは民主主義の脅威」「トランプを牢屋に閉じ込めろ」「トランプはヒトラーだ」と散々説いてきた民主党および主流メディアも、同様に「暴力を煽動した」咎を厳しく問われなければならないからだ。この点についてはさらに悪いことに、それは単なる可能性にとどまらず、実際の事件として現実化してもいる。トランプがこの半年間で二度も暗殺未遂に遭ったのは記憶に新しい。主流メディアの発信力・影響力を考えると、トランプ以上に、暴力の煽動の責任は重いと言わなければならないだろう。


池上は、ジャーナリストとして、そして何より日本人として、アメリカ政治の状況を比較的客観的・中立的に見られる立場にある。今回の記事でも、必ずしも明確に反トランプや民主党支持の姿勢を打ち出しているわけではない。しかし、その書きぶりを注意深く観察していると、事実と主観、ファクトとオピニオン、ジャーナリズムと党派政治を明確に分けられていない(わざと分けていない?)と思しき表現が散見される。

トランプ氏の暴言の数々を見聞きすると「これでは大統領に当選できるわけはないだろう」と思いがちですが、なかなかそうはなりません。

(365)米国社会、二択で分断(日経)

さりげない一節であるが、上でも見てきたように、そもそもトランプの発言は「暴言」だったのだろうか。むしろいつもの彼一流のジョークや皮肉だったのではなかろうか。少なくとも、「彼女を撃て」と煽動するような過激な発言だったと評価するには、相当の党派的解釈を要する。だが池上は、暴言は疑いようのない明白な事実だという前提で話を進め、「これではトランプが当選するはずがないとみなさん思うじゃないですか、でも案外そうでもないんですよ」とたたみかける。

「これでは」と接続することで、「これ」によって指示されている内容の自明性はさらに強められる。池上は無意識にこのようなレトリック(というほどでもないが)を運用することで、事実と主観の危ういミックスを隠蔽して結論を急いでしまう。

もっとも、この手のこき下ろしは、とりわけ「トランプ現象」については非常にありふれたものだ。我々は日々トランプがいかに酷い人間であるか耳にタコができるほど聞かされているわけであるが、ここで軽く見てきたように、トランプの「酷さ」というのは、誰の目にも明らかな事実というより、党派的な偏見でコーティングされたものが(残念ながら)大半である。だが、この手のレトリックをあまりに多く見聞きさせられてきたがゆえに、我々はうっかりそれを自明の客観的事実とみなして話の根拠づけに用いてしまう。

トランプに対する否定的な構えがある種の「型」として身体化されているので、そこから改めて事実と主観を切り分けることは大変な労力を要する。その差異に自覚的でいることは大変な知的緊張を伴う。我々はラクをする生き物なので、解釈とか党派性とかは置いておいて、「とにかくトランプが問題発言したんでしょ」と現実をショートカットする。そしてそれを「だからトランプはダメなんだ」という話の根拠に使ってしまう。

こういうことが続くと、やがて主観混じりの事実を純粋な事実と区別できなくなる。解釈や偏見のこびりついた「事実」が、いつのまにか疑いようのない明白な事実として大手を振って歩くようになる。事実に基づいて冷静に知的な論評をしているつもりで、知らず知らずのうちに偏見を拡散してしまうという事態が一般化するようになる。

この無邪気にして善意なる偏見の拡散は、一般庶民がうっかりそれに加担しているというよりは、むしろ池上のような知識層が自覚的にか無自覚的にかいっそう強力に加担しているように観察されるのは残念なことである。池上は大統領選を前に、立派にジャーナリストとして現地に赴き、結局、もとの偏見を強化して日本に戻ってきた。トランプが暴言を吐いていることなど、日本のメディアを見ていれば一目瞭然である。だが、ジャーナリストとして現地に赴くのであれば、そのいわゆる暴言なるものがいかにして構成されたか、事実と主観がブレンドされて暴言という表象へ生成するそのプロセスにこそ、焦点を当てて取材してほしいところだった。日本にいてわかるようなことをアメリカに行って再確認して「やっぱりそうでした」とリポートするのがジャーナリストの仕事なのだろうか?


池上は、開票当日に出演した選挙特番において、「ニューヨークでもトランプさんの支持者がいるというのが、劇的ですよね。考えられないですけどね」と語ったそうだ。自身ほんの最近までニューヨークで取材をしていてこの認識である。池上ほどのジャーナリストでも、自分が元々もっていた語彙や世界観に沿う現実だけを取材して仕事をした気になれるというのだから、ジャーナリズムという職業は懐が深い。

……それにしても、池上彰はニューヨークでいったい何を見てきたのだろうか?


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