それでええんか?
何を話すにせよ、私たちは既存の語彙に頼らざるをえない。
それはもう当たり前すぎるぐらい当たり前。
でもよ。
考えた方がいいよ。ちょっとは。
(フロイトの)神経症(的)なるもの:感情がある特定の行為に固着、不安を埋め合わせるための反復、言葉の自動機械、法の奴隷
なぜそうなるのか?
いや。フロイトがそう言ってるから。
とか
人って不安を埋め合わせるために特定の(心理的結果が得られる)行為を反復するという傾向があるでしょ?(全員がいつでもとは勿論いわないけれど)
じゃああまりにもねー。
そういう傾向が確かにあるとしてもだ。
なぜ?
とか
どのようにして?
とかいうことはどこまで丁寧に見てみようとしても、丁寧過ぎるということはないだろう。
アメリカだから
ってのと
フロイトの神経症
ってのを組み合わせて、
どんどんどんどん話を続けていく。
コンドームを小学生に配るとか、注射針を新品と交換するとかいうことが途端に大きな抵抗運動を呼び起こし、それが政治的リソース(集票装置)として利用される。本当に困っている人はそっちのけ。。
これがアメリカ
とか。。。
アメリカって何なんよ???
どんどん話進めといて、
「いや。あくまでも例外的であって、コンドーム配ったからってセックスに走るとか、注射針新品交換するからといってますます薬物使用するとかいうことは、アメリカ人全員に当てはまることではない。」とか
至極当たり前のことを言ってコンペンセートしたつもりなのかもしれないけれど、、、。
既に綴ってしまったストーリーって
強力よ。
そんな風に理解してしまうでしょう。
聞いた人間は。
やっぱアメリカって人でなし。。。
そうやってアメリカという名前に多くのものをお仕着せてしまう。。
って。
それこそ適用したフロイトのメタファーでいっていたところの”固着”じゃないの???
既存の語彙を組み合わせて綴るストーリーってさ
やっぱり”よく”知るためであるべきよ。
人間っちゅうもんをまあいろいろあったとしてもあったかい目で見られるような。
流れ的にうまい
とか
簡便に分かったような気分が得られる
とかだけじゃあダメよね。