みんなの哲学
哲学とは何ぞや?
私は、「人間という存在がどれもこれも尊厳あるものであることを証明する活動の仕方」と定義したい。
哲学は学ぶものではなくて、逆に、学ぶという行為が哲学の一部を成す。
学ぶ哲学といえば、西洋と東洋だろうか。
西洋の方はギリシア哲学が有名。キリスト教もその草創期においてからして、ギリシア哲学の影響を受けている。ということで、西洋哲学はギリシア哲学から連綿と紡がれている系譜であるといえる。
東洋はインド哲学と中国かな?オリエンタルというとエジプトとか古代メソポタミアも含まれるらしいけれど。
いずれにせよ、私の定義するところの哲学は学ぶ”モノ”ではないのだから、いかに学問として成り立っていようが、それらを指して哲学とは言わない。
「人間という存在がどれもこれも尊厳あるものであることを証明する活動の仕方」などと言う以上、人間として生まれたからには、誰もが生きている間中ずっと”哲学って”いる。要するに、皆それぞれ尊厳をもっているということだ。やり方はまさに無限だ。生まれてから死んでいくまでの道筋は、個々に異なり、それぞれが唯一無二だと言っていい。
なぜわざわざ「尊厳あるものであることを証明する」必要があるのだろうか?
尊厳とは何ぞや?
敬意をはらわれるべきクォリティではないだろうか。
存在していること自体に尊厳があるのだから、証明は「する」というより、「している」ということだ。
そういうことを言いたい。
つまり、証明する必要は実はなくて、「生きている以上尊厳ある存在であることを証明し続けているということに目を向けよう」と言いたい。
言葉っておもしろいね。
哲学っていったっていろんな言い方ができる。
人として生まれた以上みんなが哲学をしている。
わざわざ哲学という言葉を持ち出すのにはわけがあって、私たち人間は言葉を使うというのがそのわけの一部。
言葉使えない人だっているんじゃないのか?
それはそうだろう。
けれども、人間と区分けされる生き物が須らく言葉を使わないという状態はおそらくこの先もないだろう。誰かは言葉を使う。
したがって、言葉を使えない人を見る人は、おおむね言葉を使える方の人だ。
後者は、言葉を使えることによって、言葉を使えない人たちの尊厳を読み込むことができるわけだ。言葉を使えるという能力でもって他者を見れば、その他者に尊厳があることを読み上げてあげられるのだとも言える。
言葉はつまり、わたしたちをつなぎ、社会なるものを形作らせてくれている。
ところが、言葉というものが今、それがある限り必ず生成されていくはずの社会を、まさに破壊するパワーとなってしまっている。
なぜそのようなことが起きるのか?
パワーとは、自らのモノだけではなく、複数人の、それもわりと多数の人々のモノまでを動員して、とある目的達成に向けた変化を起こすことができる力。
人間の合理性が生み出す悪魔。
自身が理に適った存在であると信じ込み始めるや否や出現する。
合理的であると思い込んでいる以上、自分で自分に「それでいいよ」と囁くなんて特段戒められるべきとも感じはしないだろう。悪魔の囁き。蜜の味。いや。ドラッグに近い。
人生というものはどこでもきびしい。
酒飲んで気晴らしして何が悪い。
ましてや合理的であろうとして何が悪い。
全く悪かない。
合理的であろうとすることは。
でも、それはただの趣味の問題だし、ましてや合理的であるに違いないなんて主張するというのは思い上がりだ。
理屈というものはね、自他をつないでこそ生きる。
自分で自分の合理性を結論付けていてはいけない。
とんでもなくでたらめに見える他者の中にも、理屈を読み上げてあげられてナンボ。
合理不合理なんてのは、わたしら人間にゃ判定不可能なのさ。理は既にそこにあるのだから。あらしめられているのだから。何に?神さまみたいなものに。
パワーと合理性主張が悪魔だと言えるのは、一にも二にも、世界の果てを決めてしまってそれにも気付かないという残忍さが潜んでいるから。
いろいろ工夫を凝らしてそれらしいこと言うけどさ、パワーってモノがなきゃ発揮できないし、合理性なんてパワーがなきゃ主張し切れない。要するに私たちの命運を握っているのは、あくまでも不均等なモノの散らばり具合なのさ。
あんまりスイスイ滑らかに生きているって人は少ないし、よって、どんなにスマートに社会の上位の方にいる人だって、当然その人らなりに努力はしているし、それなりに辛酸だって舐めてはいる。
とはいったってさ。
モノ持ってりゃ持ってない人より軽々とパワーを発揮することはできているのよね。
パワーを相当持った(持たされた)人間が、「弱者なりに頑張っている」などと言う。
何故そのような方便を採るのだろう?
「弱者なりに」なぁんてさ。
あまりに思慮が足りないというか、やっぱ、私の辞書でいけば、残酷。
自分の守備範囲を勝手に決めているという意味でね。
だってさ。
守備範囲外のことは知らんぷりでも全く構わないってことじゃない?
もうちょい強めを意識している人にしたって、結局のところ、自分で決めた守備範囲や役割とやらを、十分とは言えずとも、まあまあ満足に果たせていると信じ込んでいる。よって、本来いっくらでも手が伸ばせるところへ、手を伸ばした方がいいんじゃないかな??みたいな葛藤がほぼ起こらない。
謙虚に頑張ってるからモノが手に入ってるんじゃないのよ。おおむね。
元々軽々モノを使える場所にいるからいろんなことが言えるのよ。謙虚に自分なりに与えられた役割果たしてまっす。とかさ。
そんなもんいくら合理的に説明したり、証明し切ったところで、誰も生かせやしない。
自分自身?
それだってかなり怪しいもんだ。
勝手に都合のイイ仕切りを築いてたら、それでいろんな可能性見過ごしちゃうもの。
そんな状態が自分自身のためになっているといえるか?
そんなむちゃくちゃな努力しなくたって、割と簡単に広げられるはずの可能性を自ら摘んでいるんだから、全く自分自身のためにもなっちゃいない。
理というものは他者を生かしてなんぼ、と言ったとおり。
整理のためにいろんな仕切りをしてみたところで、その後の自らのパフォーマンスに自分で合格点を与えて満足していては、全く整理の意味がない。
理なるもの、神さまのようなものにあらしめられていると言ったけれど、これって別に神秘主義とか、合理的私の否定とかじゃあない。
それが理屈なのよ。
合理性が世の中を救うと信じるなら、突き詰めなきゃ。
突き詰めるとは言ったって、なにも血の滲むような修練・修行なんて要さない。
理なるもの。
シンプルなのです。
その積み重ね。つながり。
一つ一つ丹念に追っていくこと。
それを面倒だと言って、同じ口で合理的だなんて、まやかしも甚だしい。
「人間という存在がどれもこれも尊厳あるものであることを証明する活動の仕方」という哲学を私たちは生まれてこの方死ぬまで続けている。
学校で哲学を学ぼうが学ぶまいがね。
テンポラリーワークやって、有り金そっこーでおでんと焼酎につぎ込んでいようがね。
哲学をする。
折角言葉も使える。
なら。
みんながやってる哲学。つまり理屈のかたまり、絡まりを読みほぐそうとすればいいんじゃないのか?
自分のために組み上げて見せびらかすような理屈なんて、私たち人と人とのつながりを妨げる役目しか果たさない。
泥にまみれよう。
世間という泥に。
”世間”なる言葉を小ばかにしたり、無闇に卑下するようなグループも存在するようだけれども、泥んこにだってワケはあるのさ。
きれい・おしゃれ・高級なシャツ着て、泥んこをあたかも下等なもののように見下すなんて、哲学者の片隅にも置けないよ。
どんなに気取った方策を練ろうが、日々死ぬまで哲学する人生からは逃れられない。
そこんとこは無駄なあがきをせず、受け入れるしかないと思うよ。
パワーエリート諸君。
(多くの人は自分自身をパワーエリートだなんて思っちゃいないんだろうけれど。。。まずはその無意識・無関心に気付くことが第一歩だよね。神さまのようなものがあらしめている理を感じるには、人間なりの理屈でもって方法を習得しなければならない。けれども前者に立ち戻らなければ、どんな方法も、社会の切り分け、モノとモノとをつなぐ仕組みの自分勝手な丸め込み、抽象化に終わってしまう。どんなでたらめに見えるものごとにも理屈はある。そう前提することが大原則にならなければならないだろう。)
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