日本の歴史も相当深い

しかし、そんなことは当然だったのである。民衆の信仰はイエやムラやクニに発し、地場こそが繁栄の原動力になってほしいはずなのだ。今日の地方創成がうまくいかないとしたら、あまりに産物や商戦に頼っていて、パトリオットな信仰的愛郷力に活力がないためではないかと思われる。(松岡正剛 千夜千冊 1653夜 『江戸の思想史』田尻祐一郎 より)

ただ、上の抜粋はややロマンティシズムの匂いが強い。

地元意識というか、そこで暮らしている場所などへの親近感は当然としても、信仰となると話はややこしくなると思う。

”繁栄の原動力”の部分も然り。

民衆の心は、権力、その他諸勢力、社会・経済制度などの前には残酷なほどに無力。

勿論無力は不在を意味しない。つまり、それなりの活力をもって生きる。

分析者・評論者が立ち戻るべきは、

「知識はモノじゃない。全ての人間のこの世に在る在り方だ。」

ということ。

知的活動がおカネや権威や名声のために為される限り、知識が体系化され得るカタチで残されている意味の真髄(=すべての命に意味がある)は、全く理解されないだろう。

知的活動が尊いものだというのなら、賢い者の視点で丸めるだけが能であるはずがない。

民衆の心。そこに必ず存在するものの動きを捉える。

それは単に民衆の心を細密に代弁するためではない。存在の仕方を知るため。

民衆の心の存在の仕方とは民衆の知恵。

民衆の知恵を知るということは、それを単に愛で、感心することでもない。

歴史の表街道として既に明らかになっているものと、どのような関係性を取り結んできたか?

上意下達も、如何様にして伝えられ、解釈され、受け入れられたのか?そこには当然の如く「上」の権勢やこれが作った制度は機能している。でも、「下」には「下」の理屈がある。「理屈」とはいえ、これは「自律的な合理的個人の理屈」などではない。

民衆個々人の頭の中など、割って見てみたところで分かるわけもないのだから、今一度、冷徹に見てみるべきは、パワーの伝わり方と受入れ或は抵抗のされ方。

何故それを、特に民衆の心の存在まで視野に入れて、見てみる価値があるのか?

一つに、パワーは人為のものだけでなく、自然のものも作用しているはずで、その仕組みは地で暮らす人々の風習・慣習にこそ反映されているから。

一つに、人類学を含む社会科学的分析で扱う意味や文化なるものを、自然科学のプロセスとは別個の独立したものとしてではなく、断絶なく連関するものとして理解するため。

一つに、心の意味を再定義するため。道徳心に駆動される心も、ただ形而上の話に非ず。心の存在を認めないでいると、益々人間と自然との繋がりが感じづらくなる。心の「存在を認める」のであって、中身が何か?について憶測を重ねるのではない。どうひっくり返っても分かりはしないのだからそれ以上の資源の浪費はない。私たち人間だけでなく、ありとあらゆるものが築いている関係性。その動的平衡を実現させている非平衡を微細に追跡することで、より細やかな公正・公平性の追求への動機付けとする。


ともかく、日本では、特に戦後、公的にも、民衆の自発的選好の結果としても、地場愛っぽいものは抑圧され、去勢され、素直に成長することが難しくなってしまっていることは間違いない。国粋主義への過度な反省と警戒。

地場産品のプロモーション?

スポーツチームの応援?


「応仁の乱以降を学べばよい」(冒頭の引用サイトより)が有効性を持つのだとするなら、「私たちは現代を見れば沢山だ」と言ってもいいのではないか?結局は古事記はおろか一神教の起源にだって遡らされるわけだけれど。

さすがに結論付けてもいいだろう。ここまで証拠が積み重ねられているわけだから。

私たち人間は、どんなに知的に優れたマインドであったとしても、見えないものに向かっては努力し続けることができない。

できた方がいいけれど、厳然たる事実としてできない。

それはいい加減認めるべきだろう。

見えていなくとも、何か意味がありそうなことぐらいは感じられる。

それは大事なこと。

でも、見えないものに向かって努力し続けることはできない。

努力は止めていい。それ自体が目的になるのなら(そもそもそれを努力とは呼べない。よって実質努力はしていないのだけど。。。)。

努力の度合いや種類を、差異付けのネタに使うことは厳禁とすべきだ。そうしたものにはいかなる価値も付与してはならない。これは力のない方の者にもできる抵抗。「この成果はこれこれの努力のお陰」「ともかく努力しなさい」などという言葉を聞いたなら、ともかく信用しなければいいことだから。(ウソつきどもを過度に貶めないようにした方がいい、という難問はあるけれど。)

本当の意味での努力というのは、結果が分からないからこそ丁寧にやり続けることを自らに課す心持ち。結果は求めないわけではない。でも結果のために手段を選ばないなどということは慎む。無理があるならできるわけがない。覚悟や受入れが先行するという意味で、努力というよりもサブミッションだ。或は、没我。

そういう信仰心のお話も大事かもしれないけれど、民衆の心も普段の関係性の中から現れるわけで、そこに必ずある微妙な力関係をこそ見るべきではないだろうか?常に平等・公正なんて無理だけど、ひどくなり過ぎそうならそれを避けられるように。Goffmanが必要性を説いているミクロのプロセスの分析とは、空間単位でも時間単位でもなく、関係性に必ず含まれる差異、それが生じる仕組みについてなのだと思う。


限界を認めることは弱さではあるかもしれない。でも、弱さを無理矢理ないものとするような醜いウソよりは善と思う。

「無知の知」(ソクラテス)ではやや漠然とし過ぎている。

私たち人間はどうしても目に見える結果を求め、それに向かって努力していることにしておきたい。

果て(ゴール)は見えている、分かっている、「知っている」ことにしておきたい。

私たちが知った方がいいのは、そうしたどうしよもうない性向と、どうすれば”みんなで”上手に付き合って行くことができるか?ということ。

弱さは知ってからが勝負なのだ。


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