「お迎えが来るまで」
先日、あるテレビニュースでアメリカの100歳(くらいだったはず)のおじいちゃんが元気にボーリングを愉しんでいる、という話題を紹介していた。インタビューに対しておじいちゃんは「お迎えが来るまで続けたい」と意気軒昂だ。
しかし、アメリカのおじいちゃんが本当に「お迎え」と言ったのだろうか?
この文脈の「お迎えが来る」とはつまり“死去する”ことだ。私の理解では「浄土信仰があれば死後は極楽浄土へ往生させるために阿弥陀如来さまが『お迎え』にいらっしゃる」ということになる。
アメリカのおじいちゃんがこうした浄土信仰の概念を知っているわけがない。それどころか、21世紀のいま、日本人ですらこの意味を意識しながら「お迎え」という言葉を使っている人は少ないだろう。
「こうした信仰をベースにした用語をインタビューの字幕翻訳で安易に使ってしまうのはちょっとまずいだろう」と思った。
気になったので、件のおじいちゃんのインタビュー英語を聞いてみた。おじいちゃんなので喋り方がフガフガしているうえに妙な訛りもあり、何回も聴き直さなくてはならない。こんな時も“24時間録画”はありがたいものだ。
ところが。
おじいちゃんはこう言っていたのだ。
I wanna bowl right up to the time at the undertaker comes for me.
undertakeがキーワードなので意味を調べたら、undertaker=葬儀屋だった。知らなかった。
直訳すると「私は葬儀屋さんがやって来るその時まで、ボーリングをやっていたい」になる。
そうか!
「お迎えにくる」のは阿弥陀さまではなく、葬儀屋さんだったのだ。翻訳字幕、メチャクチャ正しいではないか。失礼しました。
このニュース原稿は「これからも可能な限りボーリングを続けるとしています」で終わっていた。
おじいちゃんのインタビューをまんま書き直していているだけで、芸がない。
しかし自分なりに考えてみても、この話題ではこれ以外に原稿を〆る文章は思いつかなかったのである。
いろいろケチをつけてしまい、申し訳なかったことである。
(22/10/17)