蕎麦を打つ
仕事でお付き合いがある日本在住の韓国の友人が趣味で打ったお蕎麦をおすそ分けいただいた。「お蕎麦、好きですか?」「大好きです!」「では作ったら、持ってきます」というやりとりがあったもの。ずっと日本に住んでいる人だが、どういうきっかけで蕎麦打ちを始めたのかまでは、知らない。
これが、ビックリするほど美味しかったのである。
蕎麦を包むラップを開いたカミさんが開口一番、「これ、ホントに打ったもの?」と声をあげた。「え?もちろんそうだと思うよ」「こんなにキレイに切れる?手打ち蕎麦ってもっとバラバラじゃない?」。なるほど、均一に細切りになった蕎麦がきちんと並んでいて、まるで工場で作られたものようだった。
蕎麦には不思議な魅力がある。
ほんのりとした香りとツルツルとしたのどごしがみせどころだが、いずれも微妙な感覚。カミさんは「お蕎麦ってどれが美味しいのか不味いのか、実はいまだによくわからない」などと言っている。私は中学生のときに同級生の実家がある岩手でわんこそばに連れて行っていただいてから、大好きになった。
いただいた蕎麦は、その香りとのどごしが実に見事だった。カミさんも、普段は蕎麦を食べない次男も口を揃えて「美味しいね!」と大絶賛だ。近所にこんなお蕎麦屋さんがあったら、確実に通い詰めるだろう。韓国で生まれた人が、日本人もほのかにしかわからないこの感覚を理解して再現するとは、脱帽である。
音楽プロデューサーの残間里江子さんに「それでいいのか蕎麦打ち男」という本がある。
未読だが、紹介文によると「人生80年、まだまだ老け込むには早すぎる」「“小さな幸せ”に引き蘢るな」と団塊の世代を叱咤激励している本だそうな。
しかし私は言いたい。「それでもいいゾ、蕎麦打ち男」。
80、90でいよいよ体力が落ちてきたら蕎麦打ちも難しくなるだろう。なによりこんなに美味しいものを自分の手で作れたら、なんと素晴らしい人生になることか。
友人に弟子入りさせてもらおうかな。
(22/2/22)