美術史第25章『北方ルネサンスの発展と移行』
北方ルネサンス以前の西ヨーロッパのフランドル地方で栄えた初期フランドル派のロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンなどの写実的な画家はイタリアのルネサンスの美術家にも高く評価され影響を与えていたが、ルネサンスが初期フランドル派に強い影響を与える事は15世紀まで殆どなかった。
しかし16世紀前半からは逆にフランドルなどの芸術家がルネサンス美術の影響を受け始めており、この頃の代表的な北側ヨーロッパのルネサンスの芸術家としてはドイツもとい神聖ローマのニュルンベルクで活躍した画家、そしてドイツで確立された版画の作家でもあったアルブレヒト・デューラーがいる。
デューラーはイタリアに2回訪れ、そこでルネサンス美術の技法を吸収、それを固いノミのような道具で銅板に線を彫るエングレービング技法を極め、版画で再現し、ヨーロッパ中に大きな影響を与えている。
他にもドイツの画家で国際的に活躍して数々の肖像画を残したハンス・ホルバインや数回前の初期フランドル派で言及したフランスのジャン・フーケなどのゴシック美術の画家もルネサンス美術を受容した。
ルネサンスを受容した各国の芸術家は元々持っていた様式とルネサンス美術を合わせた独自の美術を展開し、イタリアが盛期ルネサンスやマニエリスムの時代だった16世紀には多くの芸術家が美術を学ぶためにイタリアを訪れ、当初はルネサンスと同じく神話や歴史を題材とした美術品が多く作られたが、北方ルネサンスの芸術家は次第に新しいモチーフを求めた。
例えばドイツのルーカス・クラナハにより人間が存在しない風景画が描かれ始めており、その一方で、デューラーなどと同じ時代のドイツにはゴシック美術の様式を使った画家マティアス・グリューネヴァルトなど未だに活躍している。
イタリア以外に広まった北方ルネサンスは其々の地域性によって変化していき、カトリックから離脱したプロテスタントの一つであるイングランド国教会が信仰される様になったイングランドや、カルヴァン派教会が普及したネーデルラント北部では、プロテスタントで宗教美術が否定的に見られる様になった事で消滅してしまった。
フランスではイタリアから招かれたマニエリスム時代のルネサンス画家ロッソ・フィオレンツィーノの影響でフォンテーヌブロー派というルネサンス系の流派が誕生、フランソワ・クルーエやジャン・グージョンなどが活躍したが最終的には結局、消滅している。
ルネサンスを受容した後の本来高度な初期フランドル派の様式を持っていたネーデルラント南部フランドル地方ではクエンティン・マサイスや、ヤン・ホッサールト、ベルナールト・ファン・オルレイなど盛んにルネサンス様式を用いる「ロマニスト」となり、スウェーデンの宮廷に移り活躍した肖像画家アントニス・モル、デューラーの影響を受けた版画家ルーカス・ファン・レイデンなども活躍した。
ローマで美術を学んでネーデルラントに持ち帰ったヤン・ファン・スコーレルの影響でルネサンス様式を使うロマニストはネーデルラント北部にも浸透していったが、そこでは16世紀後半にはプロテスタントがキリスト教本来の教えの偶像崇拝禁止を実践するために行なった聖像破壊運動により美術活動が妨げられた。
しかし、北部ネーデルラントのハールレムという町に集まった画家カレル・ヴァン・マンデルや版画家ヘンドリック・ホルツィウスなどの活躍により、北方マニエリスムと呼ばれる一派が誕生、ハールレムは神聖ローマの構成国の一つであるボヘミア王国の首都プラハとともにイタリアの外のマニエリスムの中心地となった。
また、ネーデルラントではカタリナ・ファン・ヘメッセンやピーテル・アールツェンなどの活躍により風俗画、風景画、静物画が多く描かれる様になっている。
そのネーデルラントではじまった風俗画、風景画、静物画を描く様式はヒエロニムス・ボスの影響を受けたピーテル・ブリューゲルという『バベルの塔』や『雪中の狩人』など数多くの有名作品を残した大巨匠画家によって確立され、ブリューゲルは後の時代に多大な影響を残すこととなる。