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アイヌの歴史16『アイヌ文化時代-前編-』
「アイヌ文化」とは日本では元寇などがあり鎌倉幕府が衰退に向かっていた13世紀の頃に「オホーツク文化」に大きな影響を受けた事により「擦文文化」が変容して出来た文化で、近代に入ると徐々に日本文化に吸収され消えていったような形になり普通は単純にアイヌが持つ様々な文化について言うが、今回は考古学的な擦文文化の後のアイヌ文化を扱う。
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ちなみに、このアイヌの文化と考古学的なアイヌ文化の名前が被ることに関しては平取町(びらとり)の二風谷(にぶたに)遺跡にちなんで「ニブタニ時代」と呼ぶことも提案されているが広まっていない。
ちなみにアイヌの歴史の続縄文時代と擦文時代は土器の様式の名前で決められているものなのだが、アイヌ文化の時代には土器が消滅しているため、同じようには名前が付けられない。
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アイヌ文化時代の北海道で現れた品物の一つとしてイクパスイという精霊や先祖に酒などを捧げる際に人間と霊体の仲立ちをしてくれるとされた棒がある。
名前のイクパスイのイクは「酒を飲む」を意味するアイヌ語で、パスイは上代日本語の「箸」の発音「パスイ」からの借用語でそのまま箸を表すため、イクパスイは「酒を飲ます箸」という意味である。
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他にも鉄製の鍋や漆が塗られたお椀など日本由来の品が多く普及、代わりに土器や竪穴式住居、カマドなどが作られなくなった。
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アイヌ文化が成立した当初のアイヌは「コタン」と呼ばれる5、6軒程度の家で構成された小さな集落でコミュニティを形成していたと思われる。
15世紀頃から交易活動や日本やアイヌ同士との戦争の中で徐々に大きないくつかの勢力に纏まっていったと考えられ、17世紀頃には「惣大将」あるいは「惣乙名」と呼ばれる、郡や国、藩などに相当するレベルで大きな地域を収める族長が現れた。
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しかしこれも日本の支配が及ぶと知行制(領主に土地を与える制度)が始まり、結果、纏まった大きなアイヌ集団は松前藩の家臣たちに分割され消滅、シャクシャインの戦い以降は場所請負制という藩が商人に各地の支配を任せる形ができアイヌが大きな勢力を作れることは無くなった。
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また、アイヌ文化の住居はチセと呼ばれる掘立柱建物の一種で地面に立っており、擦文時代までの穴をほった竪穴式住居とは全く異なっていたが、北方は寒いため樺太アイヌは冬の間だけ、千島アイヌは一年中竪穴式住居に住んでいた。
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また、この家がより集まったコタンの近くには砦としてチャシという施設が建設されており、アイヌ文化初期がやや荒れた時代だったと思われる。
一説によるとアイヌ文化の社会はカモイ・ニシパ・平民・ウタレ、日本語で言うと貴族・武士・百姓・奴隷のような4身分制度が敷かれていたということが言われているが詳しくは不明である。
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また、アイヌは、戦争の中で幾つかの大きな勢力を形成していったとしたが、その勢力とは最初に紹介した名寄・旭川・石狩・留萌・小樽・芦別・滝川などがある石狩川流域の「イシカルンクル(石狩アイヌ)」、函館や長万部などがある渡島西部の「ホレバシウンクルもしくはウシケシュンクル(内浦アイヌ)」、室蘭・登別・苫小牧・札幌・芦別・千歳・夕張などがある地域の太平洋沿岸西部の「シュムクルもしくはハエクルもしくはサルンクル」、帯広・釧路・根室・択捉島・国後島などがある太平洋沿岸東部の「メナシクル」、稚内や余市・利尻・礼文など日本海側沿岸の北海道やユジノサハリンスクなどのある樺太南部の「レプンモシリウンクル(樺太アイヌ)」、千島北部に分布した「ルルトムンクルやクリル(千島アイヌ)」のようなもので、特にシュムクルとメナシクルの対立は深刻で後述するシャクシャインの戦いを誘発した。
また、アイヌの間にも当然、法律が存在しており、コタン同士の紛争を防ぐために揉め事はチャシ、つまりコタンの城でチャランケと呼ばれる公開された会議、つまり裁判が行われた。
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この他にも古代日本で行われていた盟神探湯(くかたち)という釜で沸かした熱湯に手を入れさせて、火傷した方を悪、火傷しなかった方を善とする裁判が「サイモン」と称されて行われていた。
また、アイヌの法律にはすぐ殺す当時の幕府とは違い死刑が存在せず、姦通罪(浮気)では耳か鼻を削がれる重いもの、窃盗では制裁棒ストゥやシュトゥと呼ばれるもので背中や尻を叩かれる軽いものから、アキレス腱を切られる重いものまで行われていた。
死刑はないと言ったが殺人罪の場合はアキレス腱を切断され歩けない状態で野山に放り出されるという実質死刑のようなものが行われる場合が多かったようであり、また、樺太アイヌでは殺人罪の場合、被害者の遺体とともに生き埋めにされ死刑執行されていたとされる。
しかし、このような制度は松前藩が持ち込んだ日本の裁判制度の整備で廃れていったとされ特に鼻や耳を削いだり、盟神探湯(くかたち)で判決を下したりなどは当時の日本人に理解できず、後述するアイヌ差別を始めた要因になったのではないかという話もあるが真実はわからない。