美術史第17章『ゴシック美術-前編-』
12世紀、西ヨーロッパではイスラム国セルジューク朝がビザンツに侵攻し、ヨーロッパに侵入した事が発端となり、教皇ウルバヌスが提案したイスラム勢力支配下の聖地エルサレムを侵略する計画「十字軍」が行われ、イスラム教を信仰するセルジューク朝、アッバース朝、ファーティマ朝、ムラービト朝、アイユーブ朝などと、キリスト教を信仰する教皇国、フランス、神聖ローマ、ビザンツ、ノルウェー、イングランド、ポルトガル、ジェノヴァ、デンマークなどが戦闘を繰り返しており、キリスト教国家によりエルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、キプロス王国が中東に建国された。
一方、11世紀のイベリアでは繁栄したイスラム王朝、後ウマイヤ朝の滅亡後にタイファと呼ばれるイスラム小国家が南部に乱立、キリスト教諸国がイスラム勢力を侵略する「レコンキスタ」が進められたが、北アフリカのムラービト朝が南イベリアを征服、しかし12世紀にはアラゴン王国やポルトガル王国が領土を拡大、カスティーリャ王国がムラービト朝へ分裂工作を行い、結果、ムラービト朝は崩壊、しかし独立したムワッヒド朝が拡大してしまった。
イスラム勢力と盛んに戦争していた12世紀にはイスラム国(アグラブ朝)から分裂した国シチリア王国の首都パレルモやイスラム諸国を侵略していたカスティーリャ王国の都トレドを拠点に、イスラムが持っていた古代ギリシャやインドの文明を基にした優れた科学、哲学の文献が、カール大帝の影響でヨーロッパの文章上の公用語になっていたラテン語に大量に翻訳され文化が発展した「12世紀ルネサンス」が発生した。
12世紀ルネサンスでは古代ギリシャのプトレマイオス、アリストテレス、アルキメデス、ヒポクラテス、エウクレイデス(ユークリッド)、プラトンや、ローマのガレノス、イスラムのフワーリズミー、キンディー、スィーナー、ガザーリー、ファーラービーなどの文献が翻訳され、「スコラ学」という理詰めで答えを導き出す学問スタイルが誕生した。
それによって、ボローニャ大学やパリ大学、オックスフォード大学など大学という高等な教育を受ける施設が誕生、シャルトル大聖堂付属の大学ではプラトンなどのキリスト教より前のギリシア哲学とキリスト教の思想を統合させようとする「シャルトル学派」が誕生した。
文学では吟遊詩人が流行し「アーサー王物語」など騎士を題材とした作品が纏められ、音楽では複数の声部からなるポリフォニーが発展、建築分野では12世紀半に先の尖った高い尖頭アーチを持つ、大きな窓がある、建物を支えるアーチ型のフライング・バットレスなどの構造物が外側に迫り出すなどの独特で歪な様式が誕生した。
古代ローマやギリシャの均整の取れた美術の影響の強いロマネスク様式からかけ離れたこの建築様式をイタリアの知識人は当初、野蛮人の象徴的に扱われていたゴート族風を意味する「ゴティコ」と呼んでおり、これが定着してゴシック美術となる。
この、ゴシック美術では写実的な表現が多くとられており、裕福な市民や大学で教育を受けた知識人達が増加したという社会全体の変化によって、教会が行なってきたロマネスク美術からゴシック美術への乗り換えが発生したと思われ、ゴシック美術の始まりは、1144年のパリ北方のサン=ドニにあるフランス王の埋葬場所サン=ドニ大聖堂の改修工事で建築家シェジェールが、光を重視し尖頭アーチやステンドグラスをはめ込んだ大窓という建築を行い、これが首都のパリなどフランス北部に拡大した事である。
このシェジェールの様式は国外に出たフランス人建築家がロマネスク美術の厚い石で作られた建築物では高い建物ができないという限界が見えてきていた各国に広め、イングランドのカンタベリー大聖堂などゴシック建設がヨーロッパ中に広まり、全長145mの「ノートルダム大聖堂」が建設されるなど建築物の高さに対する追求もなされ始めた。
また、教会の装飾彫刻もゴシック建築の発展とともに変化、人像円柱という柱に人間を彫刻した様式など独特なものが誕生、また、人像円柱などのゴシック彫刻では可塑性のある柔らかい素材を用いた丸みのある自然な人物表現ができる塑像が多く作られ、シャルトル大聖堂の「王の扉口」のように同じ場所に作られた複数の彫刻が同じテーマに基づいて作り全体としての合理性を持たせる連関思想が誕生、これの連関思想は金属細工や彩色写本など工芸美術にも取り入れられた。
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