アイヌの歴史8『縄文・弥生・古墳時代』
縄文時代
縄文時代は簡単に説明すると土器・弓矢・磨製石器が作られ、竪穴式住居への定住が起こり環濠集落が形成され、雑木林での半栽培が行われた時代で、農業や土器生産を開始した時代であるため考古学上の区分でいくと旧石器時代の次の新石器時代に相当する。
2万年前頃、温暖化が開始した時期に、縄文時代の始めである草創期が始まったとされ、この時期には磨いた石の斧、石槍、植刃、石鏃、半月型石器、三角錐型の石器など気候変動による植物の変化や海面上昇などに対応するために各地で様々な道具が考案され、広まり廃れたりした時代で、人々は移動しながら狩猟する生活が厳しくなり一時的に定住して暫くするとまた移動するという半定住生活を行う様になり、いよいよ氷河期が終わった1万年前頃には普通に一箇所に住み着く定住生活が開始した。
これ以降を縄文時代早期と呼び、早期には定住生活が始まった事により少し穴を掘ってそこに屋根をつけた竪穴住居が集まったす町が形成され、動物の狩猟が中心だった旧石器時代とは違い、植物の採集や漁業も重要な食料源となり、土地を切り開いた事により、人間の食べ物などになる植物が多く生える雑木林が形成され、この時期から貝塚も多く現れる様になった。
その後完全に氷河期が終了し縄文海進(海面上昇)が起こった6000年前頃には縄文時代前期が開始、広場を囲んで家が立った本格的な環濠集落が出来上がり、漆を塗る文化や巨大な岩の建造物を作る文化などが生まれ、縄文を象徴する土器もこの時期に大量に作られる様になり、関山式土器や黒浜式土器などが生まれ、丸木舟が普及した事により日本産の黒曜石は朝鮮半島や樺太にも輸出された。
5000年前頃には、縄文時代中期が開始、土偶や石棒などの呪術的な道具が多く作られる様になり、土器も立体的な装飾のある大型土器になった。
4000年前頃から始まった縄文時代後期には町に土器の塚ができ、貝塚が大型化、塩の生産が行われ始め、製塩専業の人々や、塩を媒介する人々などが生まれ、交易を目的として漁業を行う人々が誕生、縄文人は経済発展を続け、巨大な石や木の建造物は東北地方に多くなった。
3000年前頃には晩期が開始、二度ほど気温が低下し弥生海退という海面低下が起こり漁業を行う湾などが消滅、大打撃を被り、経済は崩壊し人口は現象、綱や銛などが多く使われる様になり、労力の低下のためなのか金属器の模倣か石棒が小型化し石刀・石剣が生まれた。
弥生時代の到来
次に日本で到来した弥生時代とは、前10世紀頃から北部九州に居住していた堰や水路、畔など使って水を農地に供給する所謂、灌漑の技術や様々な農具を持った水田による大規模稲作を行う弥生文化が前3世紀頃に九州・四国・中国・近畿・関東へと広まり、弥生時代前期には東北、中期には中央高地にまで伝播、本州・四国・九州の全土にまで広まった時代の事で、弥生人の多くは縄文人と同じく、竪穴住居に居住し、稲の倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴も建設、町は周りが堀で囲まれた環濠集落となっており、人が住む地域と墓地に分かれていた。
また、弥生人は当初、縄文人と同じく農業を行いながら石器を使う新石器時代の文化だったが、徐々に高温で金属を溶かす技術が必要な鉄器が普及、青銅器も普及したが鉄の方が機能が高く、次第に祭具としてのみ使われる様になり、石器は全く用いられなくなった。
ちなみに、考古学の区分だとまず、最初に比較的低い温度でも加工できる青銅を使った青銅器が普及する青銅器時代がやってきて、その後に超高温で無ければ加工できない鉄を用いた鉄器時代がやってくるというプロセスを踏むのだが、日本の場合は青銅器と鉄器が同時に普及している。
弥生時代には、食料の生産が上がった事で、人口が増加し、身分や法律など社会制度が本格的に生まれ、各地に小さな都市国家が誕生していったとされており、個人的には縄文時代も大規模な交易を行なっていたので、社会制度も国もあっただろうが、弥生ではそれがより大規模になり、1世紀には奴国、3世紀には邪馬台国が文明の発達した中国との交流を達成した。
一方で、寒さで稲が育たず弥生文化が普及しなかった北海道では縄文が続き続縄文時代と呼ばれる時代に入り、遠かったため縄文時代が広まらなかった沖縄では縄文文化の中でも植物の採集への依存度が少なく特殊だった貝塚文化が続いた。
弥生時代と古墳時代
後漢の時代の中国で書かれた「論衡」では論考が書かれた1000年以上前の前11世紀頃、縄文末期にあたる周朝の成王の時代に倭人が鬯草、恐らく霊芝かウコンか何かを献上している記録があり、論衡より前の前3世紀に書かれた架空の土地が多く記載された地理書「山海経」では河北省北部にあった燕国に倭国が朝貢、つまり使者を送っていた事が記されている。
弥生時代後期の日本は単に倭ではなく倭国と呼ばれており、おそらく細かな国々の連合体のようなものだったと思われ、2世紀後期には倭国の王座をめぐって倭国大乱が発生、約8年程の戦争を経て、壱岐や対馬、松浦など周辺国の地名から九州北部のどこかにあったと思われる邪馬台国という国の卑弥呼を女王とした事で一旦内戦は終結、その後、中国は五胡十六国時代や南北朝時代に突入したことで日本の記録を残さなくなり、5世紀頃には既に天皇が倭の五王として記録される様になった。
その間、どのような事があったのかは不明であるが、考古学から見ると古墳じだい前期、段々と現代の奈良県に中心地が移動し、前方後円墳という超巨大な墓が建設される様になり、古墳中期には、ヤマト朝廷(天皇)が奈良から大阪に首都を移し、ただでさえ巨大な前方後円墳がさらに巨大化、須恵器や埴輪、石人石馬が埋められ、各地の豪族も天皇に服属する国造などとして力を付け、倭国の軍隊は国造の軍で構成される状態となっていたとされる。
6世紀中期には部民制や大臣、大連などが誕生、その後の古墳後期には、西日本の古墳では古墳の横に穴を開けて棺桶を入れる横穴式石室が作られる様になり、これが関東にも伝播、九州北部では古墳内部に彫刻をしたり絵を描いたりする装飾古墳が広まり、近畿で埴輪が衰退し関東で埴輪が多く作られ、西日本では小さい古墳が沢山集まっている群集墓が盛んに作られ、6世紀末には遂に全国で前方後円墳が作られなくなり、方墳や円墳、八角墳といった終末期古墳が作られる様になった。
7世紀中期、乙巳の変に始まる大化の改新という改革が行われ、豪族の権力を制限して天皇周辺の政府が全ての権力を持つ国となるのだが、その一環として、薄葬令という古墳の規模などを制限する法令が出され、ただでさえ衰退していた古墳文化は終わりを迎えた。
しかし、その時期には東北北部と北海道中部の石狩低地の二つの地域で、円形であまり高くない、濠で囲まれた古墳である末期古墳が現れ、当時、朝廷の権力は、北は北陸や南東北までしか及んでおらず北東北や北海道では蝦夷と呼ばれる人々が存在していた。
違いを説明すると終末期古墳は大化の改新の前後に日本の領土内で作られた小さな古墳で、末期古墳は大化の改新よりも後に蝦夷により作られたものである。
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