美術史第7章『古代ローマ美術』
紀元前509年、エトルリア人を王とする都市国家ローマが王を追放して共和政ローマを樹立し、エトルリア勢力から自立、周辺の都市国家達を征服し始め、紀元前4世紀にはエトルリア王国もローマに併合、紀元前3世紀には南イタリアの山岳のサムニウム人とのサムニウム戦争やフェニキア人の植民都市カルタゴが中心となり地中海各地を支配していたカルタゴ帝国との第一次ポエニ戦争にローマが勝利した事で、シラクサやナポリなど南イタリアの沿岸などにあったマグナ・グラエキアと呼ばれるギリシア人の住む都市国家達から多くのギリシャ美術の作品がイタリアに持ち込まれた。
その後、第二次ポエニ戦争でローマがカルタゴ帝国に再び勝利し、脅威が消えギリシアやスペイン、北アフリカ、アナトリアなどに進出、地中海の大国となって以降は、ローマでギリシア美術の流行が起き、ローマ支配下のアテナイの美術家達はローマに売るための作品を多く作る「ネオ・アッティカ派」と呼ばれる一派を形成、紀元前1世紀にガリア地域、現在のフランスやオランダ、ベルギーなどを征服した後、内戦を経てローマの独裁者となったユリウス・カエサルの跡を継ぎ、内戦を経てプトレマイオス朝エジプトを支配した上で独裁者になったオクタウィアヌス(アウグストゥス)によりネオ・アッティカ派は保護され、「アラ・パキス」や「プリマポルタのアウグストゥス」に代表されるような写実的で高度な作品が多く制作された。
一方、ローマ建築の構造上の特徴としてエトルリアの半円もしくは半球を基本とする形式を広大な空間を作る石材の重量を利用して丈夫にするために発展させて用いることがあり、これに対し外装にはギリシア神殿の軒から基壇に至るデザインをそのまま使っており、ギリシア神殿では軒も円柱も構造体であると同時に装飾としての役割も持っていたがローマ建築では単なる装飾となっている。
ローマが内乱の一世紀の時代、紀元前1世紀の前半頃からはギリシャ美術だけでなくエトルリア美術を基盤として、完全な左右対称やコリントス式柱頭の多様、外観より内部空間を重視するなどローマ固有の建築様式が生み出され、娯楽目的の円形闘技場コロッセウムや、公共施設や宮殿などの役割を持つバシリカといった建築物のジャンルもローマ国内に多く建造され、小さな破片を埋め込んで絵を描くモザイクも数多く作られ繁栄した。
建築物の壁面の装飾についても徐々にギリシャ美術の影響から独立し、神話的な風景画が多く制作され、紀元後1世紀、オクタウィアヌスの後継者達によりローマが一人の大きな権限を持った皇帝により支配されるローマ帝国となって以降の時代には、ローマの造営事業が本格的に開始し、「トラヤヌスの記念柱」や「コンスタンティヌスの凱旋門」など歴代の皇帝達の功績を称え、誇示する様な神殿、凱旋門、記念柱などが多く皇帝によって建設された。
また、公共建築では市場と法廷が併設された「バシリカ」、闘技場の「コロセウム」、大浴場の「テルマエ」なども盛んに作られ、皇帝の陵墓や水道橋、野外劇場もこの時代の建造物として重要とされる。
ローマ帝国の中でもウェスパシアヌス帝からハドリアヌス帝までの1世紀後期から2世紀半ばまでの時代はローマ建築の黄金期であるとされ、最初に作られた有名なローマのコロセウムは各地に存在するコロセウム建築の中でも最大で5万人は収容できたとされ、1世紀末期に即位しローマ帝国の最大領域を築いたトラヤヌス帝は造営事業も盛んに行なっており中でも「トラヤヌスのフォルム」が著名で、トラヤヌスの次のハドリアヌス帝も建築事業を受け継ぎ、円形プランに半球の円蓋を載せたローマ建築に典型的な構造が用いられた「パンテオン」という神殿が特に著名で、ハドリアヌスの霊廟である「サンタンジェロ城」も同じような構造になっている。
その後、帝国も後期の時代になるとカラカラ帝やディオクレティアヌス帝によって体育館、図書館、浴室、大広間、競技場を完備する複雑で大規模な総合施設として「テルマエ」が建設され、また、ローマ帝国時代には神話をモチーフとした美術作品は廃れ、代わりに当時の現代の様子を描いたリアルな絵などが流行、2世紀中頃からは主要人物を強調して表現する傾向が強くなり、どれだけ自然に描くかという事よりどのように絵で表現を行うかという点が重視される様に変化していき、これがキリスト教美術へと繋がってゆくこととなる。