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アイヌの歴史21『オホーツク文化-後編(ニヴフとモンゴルの樺太侵攻)-』



ニヴフとは

ツングース語族の分布

 現在、オホーツク文化を担った人々はニヴフやギリヤークと呼ばれており、北樺太とアムール川下流域に合わせて約4500人存在し、彼らの話すニヴフ語は周囲に分布するナナイ、ウリチ、ウィルタ、エヴェンキなどの「ツングース語族」やアイヌとは関係のない孤立した系統であるが、多くの文化において長期間に渡る関わりの中でツングース系諸民族達とかなり似通っているとされる。

ニヴフの分布図

 また、ニヴフ語は実際には北樺太のニグヴン語とアムール川下流域のニヴフ語の二種類が存在し、合わせて小さなアムール語族という語族とする場合もあり、これは一般的にはアイヌ語という一つの言語とされるが実際には幾つかの言語が存在する「アイヌ語族」でもあるというアイヌ語の分類と同じような状態となっている。

 そして、「ニヴフ」という名称はアムール川下流域のニヴフ語で「人」を表す言葉で、「ギリヤーク」という名称は付近に住んでいたツングース系のウリチの「大きな船を漕ぐ人」を意味するギリミという言葉に由来するらしい。

 このニヴフ族が日本以外の記録に直接の記録として登場するのは、オホーツク文化が崩壊する直前の13世紀中期に、ユーラシアの大部分を支配したモンゴル帝国が内戦の結果、緩い同盟関係になった際に中国やモンゴル高原本土などを収めた「元王朝」という国の記録に現れる北方の民族の一つ「吉里迷(ギリミ) 」で、考古学上のオホーツク文化もこの時代には存在したことからこの記録時点でニヴフは樺太島の多くに分布していたようである。

モンゴルの樺太侵攻

クビライ

 ニヴフ(吉里迷)は元王朝のシディ(碩徳)という将軍により1263年に服従させられ、翌年にニヴフが『骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように樺太に攻撃してくる』と元王朝の初代皇帝のクビライに訴えたことで、モンゴル軍がその年の内に訴えに答えニヴフの軍隊とともに「骨嵬(クイ)」を攻撃した。

 この「骨嵬(クイ)」はアイヌのことで、千島を表す「クリル」や、松浦武四郎が蝦夷地の命名の一つとして挙げられ採用された「北海道」という名称の"カイ"の部分の語源になったアイヌの人々が自分たちの民族を表した語彙「カイ」を中国語で表したものであり、「亦里于(イリウ)」の正体についてはよくわからない。

 元軍が派遣されて以降もニヴフとアイヌの間には小競り合いが起こり続け、1282年には元王朝が、女真族に骨嵬を征伐するための船を作らせ始め、1284年から1286年にかけて元軍が樺太へ侵攻した。

 この時の戦いは『兵万人、船千隻』と記され、そこまででは無いにせよ大軍による攻撃であり、アイヌは樺太から撤退、アイヌは劣勢となるが、1296年にはニヴフの中にもアイヌに味方する反元勢力のホフェンやブフリといった指導者に率いられた勢力が現れた。

鷲羽

 1297年にはアイヌの将軍である瓦英(ウァイン)や王不廉古(ユプレンク)という人物がニヴフの造営した船で元王朝の本土に上陸するという事態となっており、アイヌは打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴えの記録から恐らく日本で珍重された鷲羽の流通を掌握しようとしていたのでは無いかとされる。

 1305年にはアイヌが攻勢を仕掛けるがこれが失敗、1308年にはアイヌの指導者である玉善奴(イウシャンヌ)と瓦英(ウァイン)がニヴフの指導者である多伸奴(トシェンヌ)と亦吉奴(イチヌ)の仲介でモンゴルと講和を結び戦争は終結、アイヌは元に朝貢を行う関係となって落ち着いた。

 ただ、モンゴル系の国家の「属国」とは名目上のもので実際に元による支配があったわけではなく、この場合、ただ元(中国)との交易が盛んになっただけだったと思われる。

モンゴル以降の樺太


 元との朝貢で始まった中国との交易によりアイヌ文化の項で触れた樺太アイヌから北海道アイヌ、北海道アイヌから日本人に中国の品が売られ、日本人から北海道アイヌ、北海道アイヌから樺太アイヌに日本の品が売られた「山丹交易」という交易のシステムが出来上がったと推測され、また、元とアイヌの戦争以降が起こった13世紀頃からはニヴフによるオホーツク文化が消えており、これはアイヌが交易などで樺太に進出していったためと考えられる。

 その後、元が中国から追い出されてモンゴル族の原住地のモンゴル高原に撤退させられ「明王朝」が中国を支配するようになると、1411年、ツングース系の女真族のイシハという宦官に、1000名ほどの兵員と、巨大な船25隻が与えられ、アムール川下流域のニヴフや他のツングース諸民族が住む地域に派遣、「ヌルガン」に郡司が設置された。

永寧寺の碑文

 1412年にはイシハは樺太に住んでいたアイヌに衣服や米を与えている記録があり、翌年には「永寧寺」を建立、その後には永寧寺の破壊と再建などがあり、1433年までイシハの遠征は行われ続けた。


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