美術史第9章『初期キリスト教美術-後編-』
初期キリスト教美術ではニカイア公会議以降、人の姿でイエス・キリストを描く事が合法になり、その後、380年に分裂していないローマ帝国では最後の皇帝になるテオドシウス1世がキリスト教だけがローマ帝国の宗教で、他のどんな宗教も認めないという「テッサロニキ勅令」を発令、他の宗教やニカイア公会議で承認されなかったキリスト教の宗派は弾圧を受ける事となった。
ローマ皇帝がキリスト教を唯一の宗教とした事によりキリスト教の教会勢力とローマの政府である皇帝勢力の関係が非常に密接になり、美術などでイエス・キリストを賛美する事は間接的に、キリスト教の国のトップであるローマ皇帝に媚を売る事にもなった。
また、5世紀頃にはキリスト教は文明社会の証で、他の宗教の信者は未開の野蛮人であるという考え方が定着し、人間として描かれる様になった当時、髭のない男として描かれていたイエス・キリスト、ローマに元々存在した自然に生きる事を信条とし、キリスト教の思想の土台の一つとなったキュニコス派の影響などで長い髭を持つ人物として描かれる様など、ローマ文化と同化、その構図もローマ皇帝の像や絵画を元にしたイエス・キリストとローマ皇帝を同一視したものになっていった。
建築の分野では、ミラノ勅令より前、キリスト教徒が迫害を受けていた頃には上流階級の自宅が私宅教会として礼拝が行われる教会、採石場の跡や水道設備などの地下坑道を拡張したカタコンベが墓場となっていたものの、ミラノ勅令でキリスト教が公認されて以降にはローマの公共施設のバシリカ式のものや、ヘレニズム美術のマウソレイウムやユダヤ教の記念堂の影響を受けた集柱式という様式を用いた煉瓦作りの教会が多く建てられ、内部はローマ美術から受け継がれたモザイク画で豪華に飾られた。
キリスト教を承認するミラノ勅令を出したコンスタンティヌス1世により都市ローマにラテラノ大聖堂やサン・ピエトロ大聖堂が建設されると、ローマのキリスト教のリーダーである司教、後のローマ教皇が権力を持ち始めた事で、新たなバシリカ様式の教会、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サンタ・サビーナ聖堂などがローマに建設されていき、5世紀頃には地下の墓所カタコンベはキリスト教徒の巡礼地となり周辺が整備され、バシリカ様式の礼拝所が地下に設けられる事もあった。
ローマにキリスト教が広がり始めた当初のキリスト教美術には彫刻は存在しておらず、キリスト教に改宗した富裕層のためにローマやギリシア、エジプトで使われた彫刻入りの石棺サルコファガスへの装飾として行われ始め、材質は石灰岩や大理石が用いられ、装飾はローマ美術にキリスト教の要素を少し加えた程度だったが、3世紀末期には聖書の物語を刻んだフリーズ型石棺が流行、4世紀後期には大型の石棺が登場し聖書の物語ではなく教えを描いた寓意的な装飾が誕生した。
キリスト教美術では精神を描くため構図の調和や現実感を排除、立体感も何もなく、重力などの自然な動きも無視した、象徴的な、悪く言えばヘタクソな絵に発展していき中世美術へと発展していくこととなる。