アイヌの歴史15『続縄文時代・擦文時代』
続縄文時代
続縄文時代とは本州が大規模な稲作を行う弥生文化に取り込まれた弥生時代に、稲作が不可能だった北海道に残存した縄文時代で、縄文時代と変わらずに竪穴式住居に居住、狩猟、漁労、採集が行われ、石器や土器などが用いられた。
そして特に銛が発展し、弥生の影響で金属も使用されていたと思われ、埋葬も弥生人が持ち込んだ土壙墓という穴に楕円形などに土を乗せる方法で行われた。
また、続縄文時代の土器も縄文時代もそうだが、地域差があり、大きく分けて道央では江別式土器、道東では下田ノ沢式土器、道北では宇津内式土器、道南では恵山式土器という感じになっている。
その中でも恵山式土器は弥生文化の影響を受けており一番特殊で、道央の江別式土器は弥生時代後期には道南に進出、本州の仙台平野や新潟平野北部でも発掘されている。
本州の弥生文化との接触で土師器に影響を受け後北式土器や北大式土器と呼ばれる土器の様式が誕生、続縄文時代後期にあたる5世紀には道東、道北に樺太からオホーツク文化が拡大した。
当時の続縄文文化は先述の通り東北にも分布し弥生文化と共存していたと考えられ、佐渡産の翡翠勾玉が石狩地域にまで見られ、このような弥生・古墳文化との交流により7世紀頃、続縄文時代は終わり擦文時代が開始した。
擦文時代
擦文時代は土師器の影響を強く受け、今までの縄の模様ではなく、箆で擦った模様がつけられた擦文土器が広まった事で始まったとされる時代で、縄文土器の影響が残っていた日本の飛鳥時代頃の時代を初期、土師器の影響が強くなり東北の蝦夷の土師器とほぼ同じものになった日本の奈良時代頃の中期、独自の模様がつけられる様になった日本の平安時代初期頃の後期、土器の数が減っていった日本の平安時代後期から鎌倉時代頃の末期に分けられる。
また、擦文文化は続縄文文化と同じく東北地方、特に青森県にも分布していたとされる。
擦文時代の住居は依然として竪穴式住居だったが、古墳文化の影響で家の中にカマドが設置され、河川での漁業を盛んに行っており、秋から冬の鮭や鱒をとる時期には河口の丘に集落を構え、他の時期には中流より奥に集落を作ったと思われ、漁業の他にも狩猟や、今までは余り行われなかった麦、粟、黍、蕎麦、稗、緑豆などの栽培も行われ、わずかに米も存在していた。
また、日本や中国の影響で鉄器が普及し、石器が使われなくなり、ナイフ、斧、刀、装身具、鏃、釣り針、縫い針などが作成され、鉄を一から作り出す製鉄は行わなかったが、鉄加工(鍛治)は行われていたと思われる。
また、中国から輸入された銅の鏡や銅銭も見つかっており、貿易も盛んになったと思われ、青森の五所川原須恵器窯跡で生産された須恵器土器は東北から北海道まで広い地域に輸出された。
また、7世紀頃に東北北部で作られ始めた小さな末期古墳というのが8世紀後期からは北海道の石狩低地、具体的には現在の札幌、江別、千歳、苫小牧のあたりでも作られるようになった。
末期古墳、須恵器、擦文時代中期の土器が東北の土師器と近くなった事などの事から、擦文時代のアイヌは日本人、特に蝦夷と呼ばれた北東北の日本人から大きな影響を受けていたと思われる。
混合文化
また、5世紀以降、道北から道東にかけての北海道の半分や千島にはオホーツク文化という樺太起源の文化が分布していたわけだが、9世紀頃には道北が擦文文化の分布域となって、道東ではオホーツク文化と擦文文化が混合して生まれたトビニタイ文化という文化が分布する様になり、オホーツク文化は完全に樺太へ撤退、千島は考古学調査により火山噴火や大津波による影響で無人になったと思われる事がわかった。
ちなみに知床半島の斜里町のウトロにある遺跡の一つからヒグマをイオマンテに用い殺害した骨や痕跡が発見されており、近代アイヌの熊信仰はトビニタイ文化から伝わったものの可能性が高くなった。
そして、トビニタイ文化以前の続縄文時代にもオホーツク文化とアイヌの混合が発生しており、前四世紀から後六世紀頃までは樺太南部から北海道の北端までに鈴谷式土器と呼ばれる縄文土器とアムール川河口周辺の文化が混合した土器が存在していた。
また、10世紀中期には渡島半島の日本海側沿岸、具体的には奥尻や乙部、江差、松前あたりには「青苗文化」という擦文文化と平安時代の日本文化が混ざった文化が分布しており、擦文文化との違いとしては、擦文土器の表面を削って綺麗に仕上げるがそれがない事、擦文土器は野焼きだがここではカマドで焼かれた事、本州のカマドがあるが炉のない平地建物と擦文のカマドと炉のある竪穴式住居が混在した事、製鉄が小規模だが行われた事、本州と同じ環濠集落を作る事などがある一方で、漁業や貝塚などは擦文文化と同じである。
青苗文化は9世紀後期に擦文文化と日本の交易が盛んになり、交易のための形成された集落達から生じたと思われ、この頃の東北では南東北で人口が減り北東北で人口が増しているとされ、その後の10世紀中期には気候変動などにより東北全体の人口が激減、その中で東北の人々が北へ北へと移動を繰り返したとされる。
この移住により青苗文化が形成されていったのではとされており、石狩低地の末期古墳などは東北からの移住者が作ったものかもしれない。
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