シルクロードの歴史5『中央アジアの遊牧民-後編-』
*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。
前回の最後で触れた「スキタイ」とは前8世紀頃にウクライナ周辺に栄えていたイラン系民族である「キンメリア」を侵略して、逃亡したキンメリア人を追いかけたスキタイは中東を制圧するが、同じイラン系で特に現在のクルド人やペルシア人に近いメディア人に敗北して撤退、以降は、ウクライナから南ロシアで栄えた国家・民族である。
しかしスキタイは前3世紀頃にサルマタイ人により征服され、以降も勢力は縮小したものの、存続、しかし中世にはゴート人、ギリシア人、スラブ人などに吸収され消滅、しかしスキタイの文化の影響は、西は現在のハンガリーあたりから東は中国の甘粛省あたりまでに及び、先述した中東の制圧など、西アジアや南アジアとも関わった事で、シルクロードの発展に大きな貢献をしたと言える。
また、スキタイやキンメリア、メディアなどの遊牧民の生活は農耕民からの略奪や関税に依存しており、貿易は平和的に農耕民から食べ物などを得られる手段として推奨されたため、スキタイなど農業がやり辛い中央アジアに住む、もしくは中央アジアを起源とする民族達がシルクロードという貿易路で重要な役割を果たす事となったのではないかと思われる。
ちなみに紛らわしい話だが、「スキタイ」という単語はスキタイ人だけでなく中央アジアに居住していた「イラン系民族」全般を指す広い意味でも使われる事があるため別文献を読んで混乱を来す可能性がある。
また、10世紀頃にはザラフシャン川流域のソグディアナ地方に住んでいたイラン系、特にスキタイやサルマタイ、キンメリア、アランなどに近い種族である「ソグド人」という民族が、シルクロードに置いて不可欠な存在となっており、彼らの話すソグド語はシルクロード貿易のリングワ・フランカ、つまり共通語となっていた。
ソグド人が交易を開始したのは、メディアから独立して其の儘中東を統一したアケメネス朝ペルシア帝国の支配下の時代で、この項目の最初に話したバダフシャン地方産のラピスラズリやスピエル、グジャラート地方産のカーネリアンなどの宝石をペルシア本国、つまりイランに運んだ。
その後、アケメネス朝ペルシア帝国がギリシアにあるマケドニア王国のアレクサンドロス大王の東征により滅ぼされるとソグド人はギリシア人の支配を受け、大王の死後はグレコ・バクトリア王国の支配下となるが、トカラ盆地のトカラ人やイラン系のアシオイ族の侵略で崩壊、異民族の支配などを受ける中でソグド人は交易民族となっていった。
ソグド人が交易民として進出した背景には4世紀から7世紀に渡る遊牧民の大移動、具体的にはフン族、鮮卑族、突厥族、回鶻族などにより大きな遊牧国家が形成され、彼らが結んだ安全保障などで様々な国の行き来が可能になっていたというのがある。
これにより6世紀頃には本拠地のソグディアナ地方から離れた中国甘粛省の大交易都市である敦煌(トゥンファン)の住民の多くがソグド人になっていたとされ、この移住によって中国での交易活動が可能になった。
そして、その後の7世紀、唐王朝の時代には中国から離れていて敦煌を通してしかしっかりとした貿易も行えなかったソグディアナも中国領となり、首都長安を中心としてモンゴルやソグディアナの交通網が整えられ、遊牧民と農耕民など他民族の融合のための政策として、全ての民族が百姓とされ、ソグド人の商人は”過所”という通行許可証により貿易を続け、多くのソグド人が定住する人々となった。
その一方、今まで貿易を行なっていた広大な地域が全て唐王朝の支配下となった事で、通行規制や各所の税金がなくなりより頻繁な交易ができるようになり、ソグド人達は長安、洛陽、成都などの大都市の市場付近に移住するものも多く、安史の乱を起こした安禄山は北方の突厥と同化したソグド人だった。
そして8世紀にはアラビアから現れたウマイヤ朝がサーサーン朝ペルシアを滅ぼし其の儘、中国領のソグディアナ、ホラズム、フェルガナなどを征服し、それ以降、ソグド人は独自性を失い宗教はイスラム教になり、民族としてもペルシア人やチュルク系民族に同化され、中国本土のソグド人は漢民族に同化した。
さらにウイグル自治区のソグド人は回鶻や回鶻が分裂した天山、甘州などチュルク系民族の国の支配の中で同化していき、現在では高地に移住していた一部のソグド人がヤグノブ人として存続するのみになっている。