【チラ裏エッセイ】平均的日本人ってどこに向かってるんやろ?
普段は自分にとって身近な自然科学についてのエッセイを書いているけれど、そこから全然離れたエッセイを書くことに挑戦してみたい。日本人の民族性・国民性を表現したエスニックジョークっていうやつを最近見たので、平均的日本人について偏見を持って語ってみることにする。
1.同調しやすさと優柔不断が平均的日本人かいね?
ウィキペディアに載っているエスニックジョークでは日本人は次のように書かれていた。
①.沈没しかけた船を沈ませないよう、海に飛び込むように船長が日本人に説得を行う際は 「皆さん飛び込んでますよ」と言えばいい。
②.国家的問題が発生した場合の対処は、関係者が自殺し、責任者が泣きながら謝罪するも、実際には責任を取らないように根回しを済ませている。
これらは先入観や思い込み、偏見が混じりあってできた見方であって、当然ながら必ずしも現実とは一致しない。「平均的日本人がそうなんだから、すべての日本人にもそう言えるんじゃね?」という無茶苦茶な推定だ。
①の同調しやすさはほぼほぼ当たっているものの、②の ”泣きながら” という表現は法治国家という特性からすると個人的な感情は意味を持たないから間違っているような気がする。トータルすると、平均的日本人は正否はともかく周囲の言動に身を委ねやすく、また責任を取るのが嫌いということになる(一言にまとめれば、無責任か?)。そうすると、極論何もアクションを起こさなければ責任が生じないのだから「成果が得られそうになければ、何もしないことが一番だ」となり、決断を先送りにする優柔不断な性質を持っていると推察される。
2.「成功か?失敗か?」なんてのは分からんけど、他人はそれで判断するんやで
平均的日本人は同調しやすいと言っても、他人と同じレールに乗るということに関しては性に合ってるようで合っていない。それならば、自分で自分のレールを敷いてみようと一度は考える。ここで言うレールというのは人生や価値観、技術など自分オリジナルな何かを指している。
とはいえ、いざ敷いたレールの行き先が自分の望んだ場所と違っていたら「最悪や……思ってたんと違うわ」と思うだろう。これは、自分がというよりも価値も興味も感じていない赤の他人がする見方に近い。とりあえず結果だけ見て「成功か?失敗か?」を決めるというのは、時間的な流れ(現在に至るまでのストーリー)を全く考慮しないということだ。自分と他人との見方が大きく異なる原因はそこにある。
行きつく先がどこか分からないオリジナルを追求してレールを敷き始めたとすれば、少なくとも現在立っている場所は最終到達点ではないし、全貌もまだよく分かっていない。不確かなレールを行けば想定外の結果が生まれてくるのは蓋然的(半ば当たり前)なことだから、一つの結果を何も考えずに「失敗だ」と決めつけてしまうと、レールも思考もストップしてしまう。
誰もやってないことにチャレンジするというのは自由に見えるけれど、未知の部分に関しては自分で一つ一つクリアにしていく難しさを伴う。なので、安易な判断はしない方がいいし、現実を解釈するための日常で貯め込んだ知識がこの時に必要になってくる。
つまるところ「成功か?失敗か?」は他人が自分を評価する際の基準であって、レール上にいる時の自分に対して使う基準ではない。周囲から良く見られたいという一種の臆病さが働いているのかもしれないけれど、それを得ること自体は本来の目的から外れているはずだ。
3.結局、平均的日本人ってどうなりたいんやろ?
2項を受けて「平均的日本人ってこれからどうなりたいんやろ?」っていう興味が湧いてくる。でも、その答えとなるビジョンは優柔不断さゆえに見えてこない。「自分は日本人だ」と意識するのはオリンピックとか野球やサッカー、ラグビーなどのスポーツの国際大会を観戦・応援する時くらいのもので、普段はそういうことを考えもしない。
例えば、国防に目を向ければ日本国憲法第9条によって軍隊を持つことと自衛以外の戦闘行為を禁じている代わりに、日米安保条約という後ろ盾を持っているから根拠のない安心感がある。この点だけ見たら、実質的に日本は不完全な独立状態にあるのだけれど「これってずっとこのままにしとってえぇんか?」ということに対しては「まぁ今のところはこれで何とかなってきたし、このことについては考えるのやめとこうや」という雰囲気がある。
自分は興味の対象が自然科学にしかなかったから、今もこの国防については何らの意見も政治的思想も持ってはいないし「そんなよく分からんことより宇宙や超電導について考えようや」というスタンスは変わっていない。
1.我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
2.これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
3.必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
2014年に政府は武力行使をする際の「新三要件」(上記)というものを決めたみたいだ。読んでみれば「武力攻撃を受けるまで武力行使はせぇへんよ」と9条とほぼ同じ内容が書いてある。
これは自衛のための戦力以上の圧倒的戦力で包囲されたとしても、文字通り何もしないんだろうか?また、防衛に使う戦力に対して同時刻に同時攻撃・同時破壊を受ければ防衛どころではなくなるはずで、この文言はそれを許容しているのか?というひねくれた見方をするのだけれど……まぁ馬鹿素人の考え休むに似たりで、政府は何かしらの意図があってこの三要件を決めたんだろう。
4.今の平均的日本人に精神的支柱はあるんかしら?
さて、話を歴史に変えよう。ざっくりと日本史を俯瞰すると、日本人は諸外国の文化や新技術を取り入れて自分流に魔改造するのが上手い職人気質のある民族だということが分かるし、それは今も変わっていない。
ただ、この150年ほどで世界が激変したので、それに付随して精神的支柱となる何かを失ったように感じる。その「何か」があったと仮定してみると、遠因は主に次の2つにあると考えている。
①天皇陛下主体から国民主体に国の在り方が変化したこと
②宗教の色濃さが薄れて、自然科学の時代に遷移したこと
ー科学を使ってあらゆる現象が上手く説明できることが分かってきた
ー科学の発展のおかげで物質的な豊かさを享受できた
もともと、宗教(仏教)は天皇陛下と深いつながりがあった。7世紀頃、持統天皇からはじまる神仏習合は千年以上も続いた。しかし、明治時代に入って欧米からの脅威に晒されるようになると、国家と国民の一体感を出す目的で天皇陛下は仏教から神道を信仰する方へと変化していった(神仏分離)。
20世紀となり、2度の世界大戦が起こった後、日本は国の在り方が約2600年続いた天皇陛下主体から国民主体へとガラッと変わった。同じ時期に急速な自然科学の発展も起こり、電気・機械などの恩恵を直接肌で感じられたことで「自然科学は良いぞ」という風に徐々に意識がシフトしていった。その結果、信じられるのはより具体的な物やお金になり、精神的には何を拠り所にすれば良いのか分からない空っぽな状態が残ったと個人的に予想している。
自然科学とネット網が加速的に発展する現代においては「精神的支柱は何がいいのか?」という問いに対する画一的な答えはないだろう。あったとしてもそれは一瞬にして時代遅れになるはずだから、個人個人が自らの人生を通じて形成した価値観を元に出した答えを持ちつつ、変化し続ける時代に合わせて最適化していけばいいと思う。これは、時代の変化速度が人間の感覚レベルを追い越している限りずっと続くだろう。
終わりに――国語は苦手だったけど、まともに自分の考えをまとめられるようになって初めて人間になった気がするで
ここまで書いてきたことはすべて自分の偏見であることを改めて断っておきたい。
個人的な精神的支柱はずっと自然科学しかなかったのだけれど、最近そこに人文科学が加わっている(集団心理などを研究する社会科学もまぁまぁに面白いけれど)。星の王子さまエッセイ集などを書くくらいに小説や絵本を読むことにハマるとは全く思ってもいなかった。
実は、自分は大学に入る頃まで文字ばかり書かれた本を読むことが嫌いだった。そのせいで数百字程度の作文もロクスッポできなかった。原因は読解力が無かったことと、自分の意見を持っていなかったこと、そしてそれを書き起こすのが極端に苦手だったことにある。そんなんでよく大学を卒業できたなぁと思うけれども、おそらく数学と理科(自然科学)が得意で、特に化学に対する憧憬があって、その道に進んだことが幸いしたんだろう。
今振り返ってみると、国語で大事なのは思ったことを順番がバラバラでもいいから文章の材料となる文をとにかく書き出すことにあると思う。でも、その当たり前が全くできなかった。いや、余りにも出来なさ過ぎた。それこそ、「自分は言語障害か?」と思うくらいに。
まぁ今でも、何度も何度も並べ替えと推敲を繰り返してエッセイを構成しているのだから、作文力や語彙力などの国語能力は推して知るべしって感じで……。エッセイを書くのは自分の考えが間違ってても良いから、とりあえず考えをまとめておきたい時にやっている。経験次第でそのスピードは速くなっていくはずなのだけれど、ぶっちゃけ早くなった実感はしないのが現状だ。 ( ˘ω˘ ).。oO( 下手の横好きっていう言葉もあるからね