真実は我々が作り上げたものに過ぎない
本作はミステリーとしての外皮を纏っているかもしれないが、その実はアンチミステリーと言っても過言ではない。
ミステリーとは謎を解明し真実を明らかにするものだが、本作では真実という幻影が眼前で幾度となく姿形を変え、我々を嘲笑う。
そう、本作は真実を解剖するのではなく、断片的な情報を基に人々が何を真実と定義していくか、その過程こそを緻密に解剖していく。
明瞭で確固たる真実など空想に過ぎず、つぎはぎだらけで曖昧模糊としたそれが揺蕩っているに過ぎないことを明らかにするのだ。
落下を描くということを宣言するかのように、階段を落ちていくボールのシーンで幕を開ける本作。他にも発見者であるダニエルは視力が低く、スヌープが犬であるということも、真実とは「見えづらく」「他者には共有できない」ことを強調しているかのよう。
このように、本作のキャラクターや設定には作品の主題やメッセージがこれでもかと込められており、脚本の妙が随所に見え隠れする。サンドラがサミュエルと母国語ではない言語(英語)で会話していたのも、如何に人と人とは理解し合えないかを端的に表しており、それは夫婦であっても例外ではない。
加えて夫婦という役割に関しても本作はメスを入れていく。サミュエルに対して家事を筆頭に色々な役割を押し付けていたサンドラ。
もちろん彼女にも改善の余地はあったのだろうが、検察や世間は彼女の人間性の欠如を糾弾する。
もしサミュエルとサンドラの立場が性別が逆ならこのように攻め立てられただろうか。
真実が如何に曖昧模糊としていても、どれほど溜飲が下がらない状況下であっても人は選択を強いられる。
物的証拠や状況証拠を根拠にどれほど知恵を振り絞ろうと推測の域は出ず、人が人を裁くという司法制度には限界があるのだろう。
判決が出ようと疑念は払拭されないし、それを抱えたまま生きるほか残された道はないという諦観と虚無感、そして覚悟を強く感じた。
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