ゲイリーゲイリー

ゲイリーゲイリー

最近の記事

糾弾する側とされる側

非難する側とされる側。 非難する側の言い分は社会の「正義」に即していることが多く分かりやすい一方で、非難される側の心情やなぜ非難されるような言動に至ったかは見えづらい。 ただ、見えづらいことが必ずしも悪ではなく、分かりやすいことが正義ではないことを本作は我々に突きつける。 表題作を筆頭に、各編の主人公たちは周囲の人間たちから非難されたり白い目で見られたりするわけだが、主人公たちの心の中はどこが凪いでいる。正義の名のもとに糾弾する人々の言葉の薄っぺらさ、常軌の境界線を越えたり

    • 「かもしれない」と向き合うこと

      決断とは、何を「するか」を決めるのではなく文字通り何を「断つか」を決めること。 私たちは日々の生活で無数の選択肢を前に、時には短絡的に時には熟慮して決断を下すわけだが、それは無数の「かもしれない」の剪定を行なっているともいえる。 ノラとヘソンの24年間を辿る本作は、自らが剪定してきた「かもしれない」とどう向き合うかを主眼としており、他のラブストーリーとは一線を画す。 「あの時〜していれば、今頃二人は〜だったかもしれない」という恋愛関係にのみ閉じる文脈で「かもしれない」を描い

      • 罪への没入

        第三次世界大戦の勃発を巡る前作「TENET」で、ある問いが産み落とされた。 世界を永遠に変えてしまうような決断、発明を無かったことにできるのか。可逆性と不可逆性への問いかけともいうべき、この問いは本作の通奏低音であり、そしてオッペンハイマーという人物を通して今を生きる我々をも揺さぶる。 本作はオッペンハイマーを主人公とした反戦映画ではあるものの、そうした枠組みでは収まりきらないほど「罪の意識」の映像化に成功している。 まさかここまで一人の人間の内面にフォーカスする作品である

        • 鳴りやまないメトロノームのように

          本作は主人公リディア・ターが自他共にコントロール(支配)できなくなっていく過程を描くことで、権威主義の問題の本質を浮き彫りにしていく。 緻密な作りであると同時に解釈の余白も多分に存在していることから、二度三度と観直したくなる味わい深い作品でもある。 そして何より、リディア・ターという人物は実在するのではないかと思わされるほどの、存在感とリアリティを体現したケイト・ブランシェットの怪演(最早憑依に近い)から目が離せなかった。 また本作は、冒頭から非常に示唆的だ。ターが何者か

        糾弾する側とされる側

          英雄譚へのアンチテーゼ

          現代性を帯びた古典的SF作品宗教が狂信へと変わり、政治が新たな軋轢を生み出す。 人類史で繰り返されてきたそれらを圧倒的なスケールで描き、「神話」の構築を試みる一方で「神話」そのものにも批評的な本作は、神秘的で普遍的で現代的だ。 原作に忠実でありつつも主人公ポールを英雄として描くのではなく、母ジェシカのプロパガンダに苦悩し葛藤する青年として、諦念と悟りに満ちた瞳へと移り変わってしまう悲劇の主人公として描いたことで訓話としても機能する。 そして何より、チャニというヒロインを通じて

          英雄譚へのアンチテーゼ

          真実は我々が作り上げたものに過ぎない

          本作はミステリーとしての外皮を纏っているかもしれないが、その実はアンチミステリーと言っても過言ではない。 ミステリーとは謎を解明し真実を明らかにするものだが、本作では真実という幻影が眼前で幾度となく姿形を変え、我々を嘲笑う。 そう、本作は真実を解剖するのではなく、断片的な情報を基に人々が何を真実と定義していくか、その過程こそを緻密に解剖していく。 明瞭で確固たる真実など空想に過ぎず、つぎはぎだらけで曖昧模糊としたそれが揺蕩っているに過ぎないことを明らかにするのだ。 落下を描

          真実は我々が作り上げたものに過ぎない

          たとえ哀れであったとしても

          本作は「バービー」同様、支配下に置かれていた被造物(実験体・玩具)が社会やジェンダー構造という檻の中で、何人たりとも私を所有・支配できないという事を高らかに宣言する。 女性を所有物として扱う男性中心社会の価値観に対し、ベラを通じて破壊と解放を行うのだ(何かの支配下、何かに縛られているものを描いてきたヨルゴス・ランティモスが破壊と解放を描くという点も特筆に値する)。 私という存在を自身で定義し、私という存在の所有者は私だと信じて疑わないベラはどこまでも逞しく美しい。 物語の冒

          たとえ哀れであったとしても