【広告本読書録:095】ある広告人のエッセイ
新井静一郎 著 ダヴィット社 発行
温故知新、という言葉があります。古きを温め、新しきを知る。ぼくはこの言葉が好きで、よく身の処し方で悩むときなど実践しています。この『広告本読書録』も少し近しいところがあり、おそらく取り上げた本の半分ぐらいはクラシックに類するものではないかとおもいます。
そしていよいよ100回を目前に、ぼくが初版で所有するもっとも古い本を紹介する運びとなりました。それが『ある広告人のエッセイ』です。
奥付によると1974年9月15日初版発行とあります。著者は戦中戦後の混乱期を駆け抜けた、新井静一郎さん。広告クリエイティブの水先案内人、先駆者、パイオニア等々さまざまな冠を持つレジェンド中のレジェンドです。
新井先生(もはや先生と呼ぶ)のエピソードでぼくがいちばん好きなのは、森永製菓のコピーライター採用試験での出来事。チョコレートが配られ、その宣伝文句を書けという問題が出ました。もちろんコピーなんて書いたことはありませんが、新井先生は初めてチョコレートを食べたときの感激を文章にします。まさか実際に広告につかわれるとはつゆ知らず。
お手にとつて先づ銀紙をお開き下さい その色!その光沢!
次にその一片を舌の上にお乗せ下さい その香!その感触!
それから口の中で存分にお味はひ下さい その味!その情熱!
このコピーをいきなり書いたのです。コピーを書いたことのない素人が、ですよ。まず視点が面白い。企業側の言葉でありながら消費者の実感を語っています。そして言葉の並びはもちろん、展開のよさ。最後の「その情熱」なんて、クラクラします。天才とはまさに新井先生のことではなかろうか。
この実作コピーで新井先生は見事、森永製菓のコピーライターとしてデビューするのであります。そして戦後、電通に請われて入社。宣伝技術局長や常務を歴任し、紫綬褒章まで受章します。アメリカのアートディレクションを日本に紹介した第一人者でもあるという。
そんな新井先生は現役時代に「ある広告人の」と冠を載せた本を三冊、出版されています。一冊目は『ある広告人の記録』続く二冊目は『ある広告人の日記』そして三冊目が今回ご紹介する『ある広告人のエッセイ』です。
あとがきによると、この本の原稿は昭和49年の1月から5月の間に書かれたそうです。ちなみに出版時、新井先生はなんと67歳。重鎮中の重鎮です。
では今から50年前の広告業界では、いったいどんなことが起こっていたのでしょう。そこから学べることは、果たしてどんなことでしょう。
70年代の広告とは
70年代といえば、この本でも何度も出てくるキーワードでもありますが「オイルショック」が日本経済に暗い影を落としていました。そんな時代の広告コピーはどんなだったか。この連載でも紹介した『コピーライター、書く語りき。』を開いてみましょう。
1970年代ーーー
「DISCOVER JAPAN」「ビューティフル」に象徴される大キャンペーン時代到来。「男は黙ってサッポロビール」など流行語は広告から生まれる。マス・コミュニケーションが、メディアの主役として活躍した。世は広告につれ、広告は世につれ、「こんにちは土曜日くん」、「金曜日はワインを買う日」のようにライフスタイルが広告から生まれ、1975年、新聞とテレビが扱い高で逆転するまで、グラフィック広告からヒット広告が次々と登場した。パルコなど、広告のアート化も現われ、日本独自の広告文化が開花した。
(『コピーライター、書く語りき。』宣伝会議刊より)
なんだ、いい時代なんじゃないの?コピーライターにとって80年代が黄金期だとしたら、それに向かう上り坂の途中、みたいな。
土屋耕一さんの最も脂が乗っている時期。糸井さんのTCC新人賞は75年。仲畑さんはサン・アド。秋山晶さん、小野田隆雄さん、眞木準さん、岩崎俊一さん…まさしく綺羅、星の如く。少なくとも70年代後半にはすでにコピーライターブームの胎動が聞こえていたんじゃないか。そうおもいます。
こんにちは土曜日くん。(伊勢丹:土屋耕一/1972)
このジャンパーの良さがわからないなんて、とうさん、あんたは不幸な人だ!(トーメンアパレル:糸井重里/1974)
でっかいどお。北海道(全日空:眞木準/1977)
知性の差が顔に出るらしいよ……困ったね。(新潮社:仲畑貴志/1978)
ナツコの夏。(資生堂:小野田隆雄/1979)
コピーが、それまでの宣伝文句口調を捨てて、少しずつ生身の言葉で語りはじめるようになった時代。キラキラしている。躍動感がある。なにより明るい。総天然色なんじゃないの?この時の広告業界、なんていいたくなる。
新井先生の危機感
しかし新井先生は業界全体を俯瞰して、大所高所から警鐘を鳴らしていました。「広告の創造性」という章ではクリエイターの創造性を阻むものとして時間との戦いを挙げています。
創造する仕事は時間だけではかることはできません。しかし制作者が一日のうちで創造につかえる時間をどれだけ確保できるか、はその人が作る作品の質を左右する、と新井先生。
亀倉雄策氏は、午後三時前の会合には一切出ないことを建前としている。向秀雄氏は午後六時以後という退社時間になってから、やっと自分の時間が持てるようになると言っている。自分が自分と対決するきびしい時間がどの位持てるかが、その人の成長と充実を左右するのである。
また、広告における創造性の必要・不要問題について。新井先生の持論としては必要どころか創造性は何ものにも換えがたい宝です。しかしオイルショックにより広告宣伝費の削減を余儀なくされた広告主が声高に叫ぶのは販売に直結しない創造性などいらない、でした。
結果、メディアには物を売りたい広告だけで紙面が埋め尽くされることに。案内広告、不動産広告、百貨店広告、出版広告ばかりになったそうです。イメージを繰り返して積み上げていく意図を持たない広告がすべて。
贅肉がすっかりとれて、広告本来の姿がむき出しになった、かえってすっきりしたという感想も一部にはあるかもしれないが、何という寒々とした、潤いのない風景になったことだろう。商魂がむき出しになった、ガサツな姿がそこにあるのなら、それも救いになるのだが、そういう積極性があるわけでもない。一応体裁をととのえることが、気力を失わせているのである。
この「広告の創造性」で提言されているふたつの問題を眺めていて、ぼくはあることを思い浮かべてしまいました。それがインターネット広告です。
それまで効果が不透明とされてきたマス広告に代わり、確実に効果が数値として見える化されることから、バブル崩壊以降長く続く不景気の経済界では両手を挙げて歓迎されてきました。
(しかしマス広告の効果が不透明、というけれども、それにしても大手企業がこぞって使っていたのはなぜでしょうね。効果が出ないものに湯水の如く大金を使うほど企業ってバカじゃないでしょう)
しかし、あれ、そもそも広告じゃないでしょう。販促ですよね。
欲望を掻き立てるためだけに作られた意味もなく冗漫で品のないランディングページ。どぎつい写真のバナー広告。どこまでもしつこく追いかけてくるリタゲ。売ることばかり、いや、売ること以外考えていない表現たち。なんでもかんでもimpとCVRですべてが決まる世界。
その中で人間に課せられる作業は到底創造性の求められるものではありません。それを広告と言ってはばからない起業家やマーケターたち。アフィリエイトやLPの文章を書いただけでコピーライターを名乗る輩。こぞって広告予算をマス媒体からインターネットにシフトする企業たち。
そして、広告の名のもとに集まってきた若い才能が、信じられないような労働環境で酷使される。その果てに何が起きるのか、いや起きたのか。
新井先生はもしかすると現代の広告が背負うことになる悲劇的な状況を予見されていたのかもしれません。
※ちなみにぼくはデジマやネット広告否定派ではありません。媒体や手法に貴賎なし。やる人間に貴賤ありです。
50年前から何も変わっていない
また新井先生は広告のみならず、産業界全体にも警鐘を鳴らします。新製品を次から次へと生み出すことで市場の開拓と保持につとめる方法はやめるべきだ、と。いたずらに使い捨てを奨励し、名ばかりの新製品を買い替えさせることはそれ自体に無理がありますよね。
これからは企業と商品のテンポを極力伸ばしてゆかねばなるまい。目先を変えためまぐるしいやり方はやめて、企業も商品も安定成長を目指すことになる。企業の柱となる代表商品を絞ること、それを息ながく広告し売り込んでいくこと、商品の成長期をこれまでになく長くしていくことが、何よりも大切になってくるだろう。
これですよ。これこそアフターコロナの新しいスタンダードだとおもいませんか?成長を長く、というよりも成長から成熟へ。ここにも新井先生の慧眼が垣間見られますよね。
あと、日本の産業界・経済界はこの時代にこの提言がありながら、ほぼ50年間にわたって実現できていませんでしたね。皮肉にも当時のように新製品がつぎつぎと市場に登場することはなくなりましたが、それは意図的ではなく、行き過ぎたコモディティ化とイノベーティブ不全が引き起こしたネガティブな結果論に過ぎません。
50年前に新井先生が見ていた景色と現在の景色では、まるで別の世界でしょう。しかし根本的な問題は何も変わっていないまま、ここまできました。そしてあちこちでギシギシと歪みが起こっていたのも事実です。
で、あればこそ、アフターコロナの時代、新しいスタンダードをつくっていくこれからの広告人こそ、温故知新ではありませんが、先達が語ってきた警鐘や憂いを虚心坦懐に受け止めて、そこから何かを学ぶべきではないか。
そんなふうにおもわせてくれる『ある広告人のエッセイ』なのでした。
ぼくのように無力、無能の人間には新しい解や打ち手を編みだすことはできません。しかし広告業界には優秀な頭脳の持ち主がたくさんいるはず。彼らがやるべきことは、古典に学び、それを現代の技術を駆使してひとつ上のソリューションを作り上げることに違いない、とあらためておもいます。
■ ■ ■
最後に…新井先生は「コピーライター」という章の中で、最近の(つまり当時の)コピーから個性が消えている、コピーライターが制作組織に組み込まれすぎていることでその特色ある個性が薄められている、と憂いています。
それは片岡敏郎の活躍を引き合いに出して、の比較論でした。いい時代だった、これからの広告づくりの世界ではありえない、羨ましい限りだ、と。
しかし章末で新井先生は、ひとつの示唆的な文章を残します。
最近、土屋耕一氏のコピーにおける文体が個性的で目立ってきた。企業が、個性の強いコピーを持つことの可否については議論の余地があるだろうが、無色透明の頼りないコピーに比べればどんなによいか分からないと私は考える。
ぼくは、この文章を読んで想像しました。土屋耕一さんは広告文体に口語体を持ち込んだ第一人者。そして多くのフォロワーを生みます。その中に、新井先生が本書で何度も「デザイナーにはいるがコピーライターにはいない」と悔しがるスター、正確にはのちにスターとなる糸井重里さんがいるのです。
新井先生が鬼籍に入られたのは平成2年です。当然、糸井さんの活躍も、盟友仲畑さん、川崎徹さんたちと巻き起こした一大コピーライターブームも距離を置きながらも眺めていらっしゃったことでしょう。
そのとき、新井先生はどんな心持ちだったのだろうか。それを聞いたという記述は残念ながらどこにも残されていません。ということは、ぼくたちは自由に想像することが許されているのです。
さあ、新井先生はその後のコピーライターブーム、そしてブームの終焉、そしてふたたび回ってきたアートディレクターブームを、どうお感じになっていたことでしょう。
みなさんもぜひ、想像してみてください。
※新井静一郎さんについての記事はググると宣伝会議の記事や電通報に詳しいです。あとこの連載で紹介した『コピーライターほぼ全史』にも一部記事があります。