【広告本読書録:039】見栄講座
ホイチョイ・プロダクション著 小学館発行
どのようなジャンルのライターであろうとも、必ず「文体のお手本」のような一冊を持っているとおもいます。そしてそれは、そのライターにとっては原体験といってもいいぐらい衝撃的な出会いであったりして。
ぼくの場合、3つお手本があります。ひとつは泉麻人さん。上京後に古本屋で手にした「東京23区物語」はいまでもぼくのバイブル。その後の「新・東京23区物語」とあわせて繰り返し繰り返し読んだものです。
もうひとつが、ナンシー関さん。鋭い観察眼と批評精神もさることながら、恥ずかしくないノリツッコミを学ばせていただいたものです。ナンシーさんの文体には品性があるんです。
そして最後のひとつが、今回ご紹介する『見栄講座』です。あれ?泉さん、ナンシーさんときたならホイチョイ・プロダクションというのが正しい並べ方では?と思うでしょうが、そうじゃないんです。あくまで『見栄講座』に限るのです。だから「ひとり」ではなく「ひとつ」なのです。
こんな文章が印刷されるのか!という驚きとトキメキ
この本、すっごいくだらないことが超まじめな文体で淡々と語られています。最初に手にしたとき「えっ!?なんかの間違いじゃないの?」そんなふうに疑いました。そして読みすすめるうちにどうやら間違いではないことがわかると、こんどは「こんな文章、大人がまじめに書いているのか」と驚きに変わり、さらに「こんなことも印刷されるんだ!」とドキドキしました。
それもそのはず、ぼくが『見栄講座』を読んだのは15歳のとき。中学3年生だったのです。なんて早熟な、というか、おませな、というか、要は生意気なガキだったわけです。
でもおかげでそれまで一回も口をきいたことのなかった社会の先生と共通の話題が持てて嬉しかったです。「えっハヤカワ、見栄講座知ってるの?」「はい、読みました」「マジで~!中3なのにわかるのかあの面白さ?」「はい、ぼく、東京に行ってみたくなりました」「そっかー」そんな会話を卒業間近のある日、ストーブにあたりながら先生と交わしました。
こういう経験、体験が、その人間のその後の生き方や職業を決めたりするわけですから、ホント、人生って面白いですよね。
とにかく、それぐらい地方都市の中学生にまで影響を与えた『見栄講座』。当時は一世を風靡した、というと言い過ぎかもしれませんが、販売部数65万部のベストセラーでした。ホイチョイ・プロダクションはこの前にビッグコミックスピリッツに『気まぐれコンセプト』でデビューを果たしていますが、単行本化されたのはこの『見栄講座』が先。なので事実上のメジャー第一作といってもいいでしょう。
それだけに、今からして思えば気合の入った一冊。まさに入魂の書といえる仕上がりです。そんなふうに魂を込めて作られた本が、面白くないわけありません。ぼくはあっという間に『見栄講座』とそれを取り巻くいろいろなカルチャーに夢中になっていったのです。
くだらないことは、お上品に
井上ひさしさんの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」という言葉は有名です。
そこに『見栄講座』を当てはめると(罰当たりですかね)「くだらないことを、上品に」ということになるのでしょう。
この本にはミーハーがいかに見かけよく装って労せず女のコからモテるか、という表面上のテクニックがさまざまな分野にわたって紹介されています。「見栄スキー」「見栄ゴルフ」「見栄テニス」といったスポーツ分野から「見栄フランス料理」「見栄海外旅行」といったカルチャー、さらには「見栄軽井沢」「見栄湘南」などのライフスタイルまで、すべてはモテるための道具としてどう扱うかを懇切丁寧にレクチャーしているのです。
で、ふつうこういうテーマで文章を書くとすると、ちょっとお下劣な感じに走ってしまうのが人情。というか、普通の感覚です。しかし、ここがホイチョイの優れたところなのですが、文章そのものにも見栄をはらせている。もっといえば装丁、さらにはタイトルまでもスノッブな匂いを漂わせているのです。これ、実によく練られた戦略ではないかと。
実際にあとがきにもこうあります。
「見栄」のノウハウをこと細かに教えるようなふりをして、その実、実際にそれを実行しているミーハーたちを徹底的に糾弾するという趣向は、「オフィシャル・プレッピー・ハンドブック」から拝借し、全体のトーンとしては、アメリカン・ユーモアの黄金時代のロバート・ベンチリーやアレン・スミスの、皮肉たっぷり文体のムードを再現した。(あとがきより)
なるほど、と、いうことはこの『見栄講座』から文体の影響を受けたぼくはその実、ロバート・ベンチリーやアレン・スミスの皮肉たっぷり文体をトレースしているということになりますな。いまあらためて気付きました。そっか、ああいうのが好きなのか俺…。
でも、そのお上品(という名の皮肉)な文体のおかげで、逆に毒が二倍にも三倍にも効いているとおもうのはぼくだけではないはずです。そのことをこの『見栄講座』から学んだといっても過言ではありません。
「寒さ」と「爆笑」のキワキワを
いくつか印象的な文章を紹介しますが、どれも実はとても繊細な気くばりが効いているフレーズばかりです。これ、一歩間違えるとえらい寒いことになります。絶妙なバランスの上に成り立っているのです。
オーストラリアン・フォーメーションとは、上図のようにサーバー側がサーブを放った後、前衛と後衛が縦にぴったり重なり合ってしまう戦法です。このフォーメーションにどんな意味があるかを考える必要はありません。この戦法を実行するときの唯一のコツは、ふたりが縦に重なるとき、大声でオーストラリアン・フォーメーション!と叫ぶことです。それを聞いただけで、相手ペアは必ずびびります。もし、相手に先にこの手を使われてしまったら、次のチャンスに「カンボジア・フォーメーション」とか「ジンバブエ・フォーメーション」と叫び返し、より大きな混乱を相手に与えるようにしましょう。(見栄テニスより)
どうですか、このバカバカしさ。オーストラリアン・フォーメーションは当時のテニス界からは完全に無視されましたがぼくらのように遊びでテニスをしていた層からは完全に受け入れられました。しかもこの文体で書かれると本当にそれっぽい。真面目に、品よく、バカバカしくの見本です。
『見栄講座』で学んだもう一つのテクニックは、自虐です。『見栄講座』における自虐は非常に高尚です。たとえばこんな調子。
そして本講座は、こんな同じ文体のワン・パターン・ギャグを140ページも読まされ続ければもういい加減飽き飽きだぜ、という悪評をものともせず、例によって、軽井沢でもてるには、いかに振る舞えばよいかをお教えする、実用本位の教養講座です。(見栄軽井沢より)
自らのギャグをワンパターンと罵りながらもあくまで「実用本位の教養講座」と位置づけに徹する。悪評など届いていないことは読み手も書き手も承知の上で、ものともしないと言い切る。これが得も言われぬ読後感につながるのですね。
そしてワンパターンとはいえ、いまだに色褪せないギャグの数々。
外国のホテルでは、次の注意をよく守ってください。①フロント係に意気がって英語で話かけると、相手は日本語ペラペラという場合があるので(とくにグアム、ハワイ、ロスは要注意)まず初めに「この変態野郎」とか「うすらハゲ」などと悪口を言って、様子をみること。(見栄海外旅行より)
港区民は、港区以外はすべて田舎だと思いこんでいます。彼らは、杉並に住む知人に手紙を出すとき、ついついポストの他府県の方に投函してしまいますし、中野の公衆電話から港区に電話をかけるときは、思わず最初に03を回してしまいます。~中略~ 彼らはアナログの時計で時間を読むことができませんし、山の手線の線路をなぜ青い電車が走っているのか、理由が判りません。肉体的に脆弱なことも、港区民の大きな特徴で、彼らの身体の90パーセントはコレステロールでできており、階段を二階分歩いて登っただけで、心臓マヒで死んでしまいます。(見栄シティーボーイより)
いずれもフラットなトーン&マナーで書かれており、サラッと目を通すだけだとどれだけくだらないことが書いてあるのかわからないぐらいです。しかしその裏には毒が滲んでいるという。
港区民は、夕方のカフェ・バーで軽いブパー(朝食<ブレックファースト>と夕食<サパー>を兼ねた食事のこと。港区だけで通じる新語)を取ります。彼らに食べさせる料理は、味付けなど適当で構いません。味が本当に判る客が、カフェ・バーみたいなところで食事をするはずがありませんから。せいぜい油っこくて、香辛料をめいっぱい効かせた、強烈な味のものを出しておけば十分でしょう。運が良ければ松山猛が勘違いして、あなたの店の味を雑誌に褒めて書いてくれるかも知れません。(見栄シティーボーイより)
特に最終章の『見栄シティーボーイ』は作者の肩の力もいい感じで抜けているからか、ギャグの冴えがピカイチです。
六本木ではほとんどのディスコが、飲食物は、カウンターに並べておいて好きなだけ取り放題という、フリー・ドリンク、フリー・イート制をとっているようですが、あなたは、ここで元を取り返そうなどというセコイことを考えてはいけません。ディスコで出される寿司や焼きソバは、定額以上食べると必ず下痢をするというシステムになっています。(見栄シティーボーイより)
ギャグを解説するというか、面白さの説明ほど野暮なこともありませんね。ただこれらのフレーズというか文章は、一歩間違えると甘ったるくて読めたものじゃなくなるのも事実。絶妙のバランスの上に成立させるのは、並大抵の力技では不可能です。
ぼくはおそらくこの裏側に、ホイチョイ、というより著者である馬場さんの気くばり、目くばりがあるのではないか、と睨んでいます。一見、好き勝手書いているようで、対象への、または周囲へのきめ細かな気くばりを忘れない。そのうえで一線をわざと外すという、伝統芸のような。
その芸を足元からしっかりと支えているのが、クールな文体ではないかとおもうんです。そして、いつかぼくもこんな文章を書けるようになりたい…とおもうようになり、月日は流れ、いまだにその裾の端までたどり着けていません。
精進します!
最後になりましたが…
これのどこが広告本?という声がどこからともなく聞こえてくるようなので、一応、弁明らしきことをいたします。
『見栄講座』はたしかに広告と直接関係ないでしょう。しかし、その構造が非常に広告的である点、そしてボディコピーを書く上で重要なファクターである文体が学べること。さらには作者である馬場さんがもともと日立製作所の宣伝部に籍を置いていたこと。後に『気まぐれコンセプト』という広告業界を舞台にした漫画の連載をはじめたこと。
そういった要素から「広告本」と呼んでも差し支えないのではないかとおもうのです。
もし、いま、ブックファーストの「広告」コーナーに『見栄講座』が置いてあったら、ぼくはおもわず「ププッ」と笑いながら、でもそのセンスを高く評価することでしょう。
さらに帯の推薦文は「ピッカピカの一年生」でおなじみの杉山恒太郎さん。そこに書かれたプロフィールには「日本を代表するカー・レーサー」ですって。もちろん全てフェイク。ここまでふざけたおすと、もはや立派だなとおもえてきます。
おそらく、いまの時代なら炎上?しかねないレベルですが、クオリティの高さがそれを凌駕している好例でもありますね。
そういう点からも『見栄講座』は立派な広告本である!と断言しちゃうのであります。