この秋、孝明天皇や明治天皇が乗った鳳輦(ほうれん)が、東博に再展示されます
京都御所から江戸城へ天皇がお引越し(東京奠都)されたのは、明治元年10月13日のことです。
維新直後というか最中とも言える時期のことですし、一般人ではなく天皇に関することでもあるので、様々な用語が、一般とは異なります。
例えば江戸城に関しても、明治天皇が到着したことで東京城へと改称されていますし、その後は皇居と言われるようになります。ただ明治21年には宮城と称するようになりますが、太平洋戦争後の昭和23年には宮城の名称が廃止されたそうです。
奠都についても、遷都とは異なるのか? という議論が当時もなされていたようです。京都の世情も考えたのか、明治元年当初は、東京(江戸)への行幸とされました。これを略して東幸とも言われましたが、つまりは「天皇が東京へお出かけになられた」という意味です。京都の人からすれば「すぐに還ってくるんですよね?」ということ。
こうした事情からか、日本では法令で決められた「首都」がありません。「日本の首都はどこですか?」と聞かれたら、おそらく誰もが「東京です」と答えると思います……私が東京圏で育ったからですかね?。実は、東京が首都だとは、正式に決まっていません。
それはともかく、明治天皇は9月20日に京都をご出発(ご出駕?)されて、約3週間を経て東京に到着されます。歴代天皇で初めてのことです。当時の(今も?)関西の方からすれば、荒ぶる東夷や坂東武者が跋扈するエリアへ行くのですから、さぞやご心配だったかもしれません(笑)。でも逆に、万葉から詠われていた武蔵野の情景を思い浮かべつつ、楽しみにしていたかもしれませんね。
さて、その東京への行幸で、移動手段として使われた天皇専用の乗り物が鳳輦です。
明治天皇が東京行幸で使われた鳳輦は、これまで東京帝室博物館、つまり東京国立博物館に収蔵されていました。一時期は帝博で陳列されていましたが、東博になってから、久しく展示されることもなかったようです。
今年は東博が創立150年を迎え、10月からは150年を記念する特別展が開催されます。その際、久しぶりに鳳輦が展示されます。
■鳳輦とは、どんな乗り物か
この鳳輦は、江戸末期に孝明天皇が新造された内裏(現在の京都御所)に遷幸される際に用いられました。また明治初年には明治天皇が東京に行幸される際に乗られたものです。
上の写真は、東京国立博物館の壁に印刷されていた写真です。帝室博物館の頃に、歴史部というコーナーの様子。奥にあるのが鳳輦で、手前が唐車です。その唐車の手前にも、神輿のようなものがありますが、これが何かは不明です。
この写真には、全く同じ角度から撮影された2パターンがあります。もう一方の写真には、一番手前の小さな神輿のようなものがありません。その写真は、絵葉書に使われていて、下のような文面が記されています。
「唐車は(橘?)家の乗用せしもの」とあります。仮に橘家の乗り物と考えた場合に、橘家とは、おそらく橘氏の間違いではないかと思います。また、この場合の橘氏は、朝臣といった意味で使っているのでしょう。
江戸時代に描かれた鳳輦(ほうれん)図
江戸時代には、藤原寛豊さんという方の「鳳輦図」が、描かれています。所蔵する東博によれば、「寛政11年4月15日写」とあわせて「藤原寛豊/模写」と記されています。
ただし、同図の左側には「安永二年発巳正月十七日 伊勢平蔵貞丈寫」と記されています。
つまり原本が寛政11年4月15日に、藤原寛豊さんによって描かれた。そしてその原本を安永二年に伊勢貞丈さんが模写した、ということでしょう。
藤原寛豊さんについては、詳細が分かりませんが、伊勢平蔵貞丈さんについては、各種資料がネットでも確認できます。何者かと言えば、朝廷や武家のしきたりである「有職故実」の研究者です。
江戸時代に有職故実、礼法のプロフェッショナルとして幕府に雇われている家系は「高家」と言われ、流鏑馬などの弓馬で有名な小笠原家のほか、『忠臣蔵』で悪者にされた吉良家、そして鳳輦を描いた伊勢貞丈の伊勢家があります。
そうした有職故実の研究のために、文献に残っていた『鳳輦図』を、模写しておいたのでしょう。
江戸時代には、ほかにも『鳳輦図』を書き留めている大名がいました。以前、谷文晁を紹介したページでも登場した、松平定信です。
彼は、とにかく記録魔というか、図鑑を作る…または作らせる…のが大好きだったようです。そして、松平定信が谷文晁らと作った図鑑または百科全書が『集古十種』や『古画類聚』です。
「鳳輦図」が描かれているのは、松平定信が編纂した『古画類聚』です。
ちょっと……上手とは言えない「鳳輦図」ですね……。とはいえ、特徴はよく分かります。とにかく神輿のようなもの、ということのようです。また、鳳輦のほかにも、右側に描かれているような、8人ほどで担げる、小さめの神輿(?)も、行幸の際は用意されたのかもしれません。この小さめの神輿に付記された文字が判然としませんが「太子像」と書かれているようです。天皇や皇后とは別に、なにか宝物を運ぶための神輿なのかもしれませんね。
『古画類聚』には、ほかにも尼眉車も描かれています。これは「屋形の軒が唐破風 (からはふ) に似たつくりの牛車 (ぎっしゃ) 。上皇・親王・摂政・関白などが、直衣 (のうし) を着たときに乗る。」とのことです(goo辞書より)。
さらに、もう一つ「唐御車」も!
ここで改めて、東博の前身である帝室博物館に陳列された「唐車」を振り返ってみます。すると写真の「唐車」は、『古画類聚』に描かれた、尼眉車の設計に、「唐御車」と同じデザインがあしらわれていることが分かります。
さらにネット検索を駆使して鳳輦を調べてみると、内外資料堂というところに、上記2つの鳳輦図よりもカラフルなものがありました。
いつ頃に書かれたものなのか分かりませんが、「寛政度御再興鳳輦」と付記されています。寛政年間(1789〜1801年)に作られた鳳輦、ということのようです。
また「帝室博物館御陳列」とも書かれていますが、これは正確なのか不明です。というのも、日本近世史学者の藤田覚さんによれば「江戸時代の天皇は、禁裏御所から外へ出かける行幸がほとんどなかった」としています。同氏によれば、行幸または遷幸された例は2回です。(岸泰子『安政度内裏遷幸と都市空間』より)
一度目は寛政二年の光格天皇。そして二度目が安政二年の孝明天皇です。
「帝室博物館御陳列」というのが正確であるためには、光格天皇と孝明天皇、それに明治天皇がお乗りになられた鳳輦が、同一だったということです。今秋に東博で展示される鳳輦が、寛政二年より以前に作られたもの、ということになります。
この光格天皇の遷幸を描いた図に『桜町殿行幸図』があります。内外資料堂の鳳輦は、どうやら『桜町殿行幸図』と同時期に描かれたか、もしくは模写されたものかもしれません。
『桜町殿行幸図』の鳳輦上部に乗る鳳凰を拡大してみると、全体は黄金色ですが、顔のベースが白く、首元や頭部は赤や緑で彩られています。また口元からヨダレのような……と言うと誰かに怒られそうですが、ネックレスのようなものが垂れ下がっています。
では、東博所蔵の鳳輦の鳳凰部については、どうなのか? これについては、東博のデジタルアーカイブで詳細が見られます。
尾羽根が12個と同じですし、くちばしから宝飾が垂れ下がっています。
顔の表情は、『桜町殿行幸図』絵巻の白ベースに赤や緑に対して、東博所蔵品は、白ベースに赤や青で、剥げてはいますが緑も見られます。首筋は、青銅に金箔が貼られていたのでしょうか…。
同じとまでは言えませんが、よく似ているとは言えるでしょう。
ちなみに『桜町殿行幸図』絵巻には、「御車」も描かれています。
御車については、毎回新調されたのでしょうか、残されている図版を見る限り、それぞれ異なる意匠です。名称も「御車」とも「唐車」とも異なり、「出車」と記されています。誰かが乗っていたのか、それとも何かを乗せていたのでしょうか。
詳細は分からないままですので、東博150年記念の特別展で、どんな解説がされるのかが、とても楽しみですね。
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11月22日に追記
トーハクの解説パネルでは、鳳輦についての突っ込んだ説明はありませんでした。ただし、トーハクのブログで、学芸員による詳細な説明が記されていました。
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