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上野寛永寺の天井画・双龍を観てきました

三連休を前にして、旅行好きの妻の「どっかに行きたい」が始まり……「(伊豆の)網代の宿が空いているから取っていい?」ということで、「いいよ」という以外の選択肢はなかったわたしです。

息子は息子で、最近ハマっている鉱石採集へ行きたいというので、愛読書を調べて「菖蒲沢海岸だったら近いんじゃない?」ということで、熱海でレンタカーを借りて、菖蒲沢海岸へも行ってきました。


■ちっちゃい水晶がザクザクとれた菖蒲沢海岸

息子が鉱石を採っている間は妻に任せて、わたしは近くの河津 平安の仏像展示館(谷津・南禅寺)へでも行こうかと思っていたのですが……熱海を13時少し前に出て、伊東あたりのモスバーガーで昼食をとり、菖蒲沢海岸に着いたのが15時少し前でした。網代あじろの宿の夕食は18時からと決まっていて、20時には食べ終わらなければいけません……東京トラック事業健康保険組合の保養所なので、夕飯を待ってくれないんです……となると17時には出たい……ということで仏像展示館は諦めて、家族3人で石拾いすることにしました。

これまで伊豆には何度も来ていますが、こんなにおもしろい浜があるなんて知りませんでした。しょうみ1時間くらい石を拾ったり割ったりしながら、水晶がニョキニョキしている晶洞付きの石がザクザク採れました。石英なんかも多くて……次はもっと明るい時間帯に行ってみようと思います。

上の写真を拡大してみました
晶洞が貫通している石
大量に拾ってきた石を全部持って帰りたいという息子を説得して
これだけ持ち帰ることに……それでも多い……

宿に一泊した翌日は、朝風呂に入って朝食をとった後に、今度は妻のリクエストで釣りへ行くことに。網代港で釣具セットをレンタルして、息子が釣り糸を垂らすと……数十秒後には「釣れたぁ〜!」と叫ぶ妻……息子は無言なのに……。その後も一般的な釣り人たちには敬遠されている魚が爆釣で、妻も息子も満足げでした。ということで1時間半ほどで30匹くらいを釣って、網代を後にしました(素揚げして夕飯として美味しくいただきました)。

駅前でレンタカーを返却して、妻は「あぁ〜なんか一泊しかしてないのに、すっごく満喫できた気がする〜」と言い、息子も「楽しかったぁ〜。ぼくも母もしたいことができたね」と2人で笑い合い……続けて「父は何かしたいことなかったの?」と……なんだか「お前はなんも したいことがないのか?」的な雰囲気で聞いてきやがりました。ほんとは仏像を見に行きたかったのに……。

でまぁ駅前のマックで昼食をササッと食べつつ(妻はどこかで弁当を買ってきて)……東海道本線で東京方面へ向かいました(最近、在来線のグリーン車での旅にハマっています)。で、わたしは横浜駅で家族と別れて途中下車。横浜のそごう美術館へ向かいました。

目的は、旅行前日の土曜日に行く予定にしていて断念した展覧会『手塚雄二展 雲は龍に従う』です(土曜日は雨だったのと、仕事が残っていたのでやめました)。

手塚雄二さんって、美術に詳しくないわたしには「誰それ?」的な感じだったのですが、8月に上野の寛永寺を見て回った時に、同氏が本堂の天井画を制作しているというのを知ったのです。

それから手塚雄二さんのことを調べたら、その寛永寺に奉納する絵が既に完成していて、様々な場所で公開されていたんです。日本橋三越本店でもお披露目会があったそうで……「うわぁ〜……知っていたら行っていたのになぁ……」なんて残念に思っていたら、10月19日〜11月17日の会期で、横浜・そごう美術館でも観られるっていうじゃありませんか! 横浜だったら、ちょっと頑張れば見に行ける!……と思いつつ、「そこまで頑張って(わたしは)見に行かないだろうなぁ」なんて客観的に自己分析していたんです。そんな感じでいたら、手塚雄二展を見に行かれたという、ららさんのnoteを拝見して……「やっぱり行かなきゃ!」って思った次第です。

ということで、やっとここからが今回の本題です。

結論から言うと……控えめに言って「涙が出そうなほど(出ませんでしたけど……)感動しました」。本当に、胸をギュッと掴まれるくらいにググッときました。そういう気持ちを後から(わたしが)思い出せるように、観てきた体験(写真)を、noteしておきたいと思います。

■ここからが本題の『手塚雄二展 雲は龍に従う』

横浜駅に着くと、ゲゲゲっというくらいに……すっごい混んでいました。苦手な人混みに揉まれながら……「やっぱり帰ろうかなぁ」なんて思いつつ、横浜そごうへ向かいます。

人の多さに萎えながらも無事に店内に入ると……かなぁ〜り混んでいました。デパートって、こんなに混んでいるものなの? って思ったら、昨日、横浜ベイスターズが優勝したらしく、優勝記念セールが始まっていたんですよね。そういえば菖蒲沢海岸から宿に向かう時に、ラジオで日本シリーズが中継されてたなぁ……。

お客さんが入れ食い状態の中で、ベイスターズのハッピを着て忙しそうな店員さんに、息も絶え絶えになりながら「すみません……美術館は……どこ…で…すか?」なんて聞いてみたら、「美術館は6階へ行っていただき、一番奥の方になります」と教えてくれました。「はぁ……まだ先なのかぁ」。

こういう大勢の人が小綺麗なカッコをしているところって苦手なんですよね……。ほんと、なんで美術館巡りを趣味なんかにしようと思ったんでしょう(正確には、そんなことを趣味にしていません……趣味はトーハク巡りです)。

だってこの日の格好は、どこかでもらった胸にドクロマークと、なぜか大きく「7」と大書してあるTシャツに……(色々と事情があり)妻から借りて電車のトイレで着替えたトレーニング用のズボンです。それだけでも我ながらヘンテコな格好だなぁと思っているのに、抱えているのは、着替えなどが入っているシワクチャのボストンバッグタイプのエコバッグです。我ながら、おかしい……。見た目で人を判断しそうな美術館のスタッフに、入館を拒否られるんじゃないかとすら危惧していましたが……まぁ不審がられたような気もしますが……無事に入れてもらえました……ホッ……。

美術館……というか美術スペースですね……そこに入ると、ドドドド〜〜ん! と、いきなり上野寛永寺の根本中堂に奉納される天井絵が敷いてありました。横12メートルで縦6メートルという巨大さの『叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)』です。名前はおそらく……ですが「東叡山の二龍」ということでしょう。

こういう絵だっていうのは知っていたのですが、その実物を目の前にすると、やっぱり全く違うんですよね。心の底からザワザワザワァって心が揺さぶられて、「息を呑む」っていうのは、こういうことなんだろうなぁと、この天井絵を目の前にした時に思いました。

なんでしょうね……実は完全に侮っていました。「見たい」とは思っていましたが、別に「素敵な美術品だから」見たいと思ったわけではないんです。わたしが見たいと思ったのは「歴史ある寛永寺の根本中堂に奉納されるから」見たかっただけ。これが奉納先が寛永寺ではなかったら、見に行こうなんて思わなかった……スタンプラリーのハンコを捺しに行く……それくらいの心構えだったんです。

見事に裏切られました……もちろん良い意味でです。ブルブルブルってなったし、「すげぇよこれ」ってつぶやいてしまっていました。いろいろとね、YouTubeなどで作者である手塚雄二さんの、この絵に対する思いとか、制作中の苦労とかも一通り見ていたのですが……なんだかそういう絵の技巧だったりが、どうでも良いように感じました。だって、絵が発しているチカラがすごいんですもん。それは、受け手のわたしが勝手に感じている絵のチカラなのですが、それを感じられただけで、もう十分ですよね……こういうのは。

この「阿龍」と称せられた口を開けたほうの龍からは特に、圧倒的な気を感じました。すごいよもう……。

色んな方向からパシャパシャと写真を撮ってしまいました。本当は全部載せておきたかったのですが……まぁあんまり多いのもアレなので、いちおう厳選しましたけどね。角度によっては怒っているようにも見えて、また別のところから見ると「ニヤリッ」としているようにも見えて……手塚さんの意図がそういうものだったのか知りませんが、もう手塚さんの意図とかも、どうでも良いですよね……だって、すごいんですもん。

阿龍の手には薬師如来を意味する梵字「ベイ」が青いラピスラズリによって入れられています。
【2024年11月5日追記】
奉納される東叡山寛永寺の根本中堂(本堂)の本尊は、薬師瑠璃光如来(通称:薬師如来)。また現在の根本中堂には、最初の根本中堂が落成した時に、京都から運ばれてきた「瑠璃殿」と記された第113代 東山天皇の宸筆による扁額が掲げられています。→そのことから、阿龍の手には薬師如来を意味する梵字「ベイ」が青いラピスラズリによって入れられたのでしょう。

上の写真の左上に見えるのが「吽(うん)龍」です。どちらの龍も、ちゃんとわたしをジィ〜っと見つめているようです。そして、手間がかかって大変だったって言っていた鱗の部分もよく見てきました。

画角の中央に配してある口を大きく開いた「阿龍」に比べて、端の方に描かれている「吽龍」は、少し目立たない感じです……なのですが、ドラゴンボール(宝珠)を持っているので、しっかりと存在感があります。そごう美術館の展示方法だと、「阿龍」を手前にしてあるので、「吽龍」は左の奥の方に配置されているように見えます。これが寛永寺の根本中堂の天井に貼り付けられると、どうなるんでしょうかね? 

そごう美術館での見え方

上の写真がそごう美術館での見え方です。これが天井画になるということは、下のような感じなのでしょうか?

上の写真の天地を反転させてみました

……ということで東叡山寛永寺のホームページを見たところ、根本中堂(本堂)に入って天井を見上げると、手前に吽龍があるようです。まぁ完成してみないと、分からないですね。

なんでこんなに板の写真ばかり撮っているのかと言えば、手塚雄二さんたちが描いた龍の絵は、もともと寛永寺の根本中堂の天井に使われてきた板の上に描かれているからです(そう言っていました)。

上野の寛永寺は、寛永年間……つまりは江戸時代初期の寛永2(1625)年に幕府と万民の平安・安泰を祈る祈願寺として、慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)僧正によって創建されたお寺です。その頃から整備されていった、根本中堂(いわゆる本堂)を含む一大伽藍のほとんどは、慶応4年5月15日(1868年7月4日)の、彰義隊の戦い……上野戦争……の時に焼失しました。

現在の根本中堂は、その後の明治十二年(1879年)に、川越・喜多院の本地堂を移築したものです。その本地堂が喜多院に造営されたのが、寛永15年(1638年)と言われています。

もし天井板が創建当時のままのものだとすれば、手塚雄二さんたちは、386年前の板の上に、絵を描いているということ……。ところどころにある板の木目を見ていると、そうした歴史が感じられるんですよね。

この『叡嶽双龍』が東叡山寛永寺に正式に奉納されるのは、同寺が創建400年を迎える来年の2025年のこと。現在は黒い紙が貼られている双龍の瞳が塗られて……つまりは「画龍点睛」の儀式が行われるそうです。

その正式奉納後は……天井にはめ込まれるわけですから……今のように間近に見ることはできません。少なくとも数百年は、天井から外されることはないでしょう。また寛永寺のお堂の中は(メディア以外は)撮影禁止なので、こうして写真を撮ることもできません。そうした歴史的な絵が、今は見られるということです。

■展示会で見られる『叡嶽双龍』の巨大ポスター

たいていの美術展は、会場の入口付近に、ハイライトとなる作品の大きなポスターが貼られています……というのは、美術展へ行く誰もが知っていることでしょう。

わたしは、この大きなポスターを見るのが大好きなんですよね。なぜ好きかと言えば、模本や複製品が好きというのと同じなのですが……細部までじっくりと観察できるからです。

今回の『叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)』もそうですね。さすがに原画が巨大なので、巨大ポスターの方が原画よりも小さいですけどね。こうやって全体が視界に入るギリギリの大きさで見られるのは貴重です。

PEN Fで撮ったポスター
iPhoneで撮ったポスター
吽龍

■展示会で見られる『叡嶽双龍』の下絵

『叡嶽双龍』の解説には、「画家は南宋末の画家・陳容の龍図を参照するなど綿密な龍の研究を経たのち、小下図(こしたず)を繰り返し作成して構想を練」ったと記されています。そうした下絵の、おそらく最終形態……令和4年(2022)69歳の時に描かれたものが展示されていました。

小下図
iPhoneで撮ったポスター(ほぼ完成品)

パッと見た感じの小下図は、完成品と同じ……なのですが、よく見ると細部がかなり異なります。パッと見た感じで言うと、(ほぼ)完成品では、やはりチカラがみなぎっていますよね。龍の爪の先までチカラが入っているし、眉間や口元……角(ツノ)なども異なることが分かります。

とはいえ……小下図もまた迫力満点ですね。これ……本当に小下図なんですかね……。作品として購入したいという人が殺到していそうな気がします。

日本画の小下図としては当たり前なのかもしれませんけど、この小下図って、ちゃんと板の上に描かれているんですかね……。

ちなみに……今展で展示されているわけではありませんが、南宋時代の画家、陳容さんが描いたと伝わっている(けど、たぶん怪しい)、東京国立博物館蔵の《五龍図巻》を貼り付けておきます。参考にしたのが「陳容の龍図」と記されているので(日本にあるものを参考にしたとするなら)、おそらく徳川美術館蔵の《龍図》もでしょうけど……そちらは貼り付けられないため、こちらを。

徳川美術館の《龍図》は、下のサイトで見られます。いずれも“伝”陳容筆ですけどね。

なにはともあれ……今展のタイトルが『手塚雄二展 雲は龍に従う』とネーミングされているのは、これらの作品や陳容さんへのリスペクトが感じられますね。

また、小下図や天井画の『叡嶽双龍』とは別に……その後の令和5年(2023) 70歳の時に描かれた、《阿龍》と《吽龍》という作品も展示されています。

《阿龍》
《吽龍》

■『叡嶽双龍』“以外の約50作品”にも、心奪われました

正直ですね……入館料が1,400円だったかな……部屋に入るまでは高いなぁって思いました。でも天井画の《叡嶽双龍》を見てから、さらに手塚雄二さんのほかの様々な作品を見ていきながら……見に来て良かったし高くなかったなぁって思いました。

《雷神雷雲》平成11年(1999)46歳
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《雷神雷雲》部分
《風宴》平成16年(2004)51歳


《兆(きざし)》平成31年(2019) 66歳
《兆(きざし)》部分
《兆(きざし)》部分
《兆(きざし)》部分
《兆(きざし)》部分
《兆(きざし)》部分
《兆(きざし)》部分
《雪韻》平成28年(2016)63歳
《雪韻》部分
《春夢》令和5年(2022)70歳

手塚雄二さんの絵を見ながら「あぁ、日本人で良かったなぁ……こういう絵が美しいって感じられる感性を持てたことがうれしい」って、しみじみと思いました。細部までものすごく繊細で、油断するとポロッとなくなってしまいそうな儚さはかなさみたいなものが感じられてドキドキしたし、冒頭に記したように、涙が溢れ出そうになりました(溢れませんでしたけどね)。

またわたしは、現代アートって苦手だなぁって思っていたのですが……現代美術が苦手なわけではないんだなと、手塚雄二さんの絵を見ながら改めて思いました。

それに日本画って……もちろん大先生と言われる手塚雄二さんの作品だからというのもあると思いますが……ちゃんと、すごく進化してきているんだとも感じました。手塚雄二さんのような作品を、例えば師匠の平山郁夫さんが書けたかと言えば、書けなかったでしょうし、狩野永徳さんや俵屋宗達さん、酒井抱一さんや葛飾北斎さんだって、手塚雄二さんのような龍や雷神はもちろん、雪や枯れた蓮も描けなかっただろうなと。もちろん古人と比べるものではないでしょうけど、そうした先人の足跡を踏まえながら、日本画が、きちんと進化しているということを確認できて、とてもうれしい気持ちにもなりました。←何様?

急遽行くことになった『手塚雄二展 雲は龍に従う』でしたが、予想外に収穫の多い美術展でした。横浜そごう美術館自体は……そんなに良い展示環境ではありませんでしたが(個人の感想です)、それでも行って良かったと思わせるものが、手塚雄二さんの作品にはありました。(横浜)そごう美術館では今月17日までですが、12月7日〜12月25日には名古屋の松坂屋美術館へも巡回されるそうなので、ご興味があれば「ぜひ!」という感じです。

ということで、今回のnoteは以上です。

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