数々の波乱を乗り越えてトーハクに立つ『毘沙門天立像』〜実は著名日本画家2人に愛された立像でした〜
東京国立博物館で展示品を見ていると、寄贈者が記されていることがあります。そんな寄贈者で気になることがあり、帰ってきてから、検索してみることがあります。(ちなみに、いま1番気になっている寄贈者は、徳川頼貞さんです)
最近、トーハクへ行った時に、平安時代のものだという『毘沙門天立像』が展示されていました。
なにげなく解説パネルを確認すると、珍しく個人の人が寄贈したことになっています。「え……こんな大きなものを、しかも平安時代の毘沙門天立像を、個人が所有していたの?」と、驚いたというか不審に感じたんです。普通、こういう仏像って、個人が所有できるようなもんじゃないでしょ……と。
しかも寄贈者の名前は「川端龍子」さんとあります。
え? 女性?
名前を「りゅうこ」と読んだわたしは2度びっくりでした。別に女性でもいいんですけど、トーハクへの寄贈者で女性っていうのは、土偶や土器、アイヌ関連のもの以外では、珍しい印象があるんですよね。
近代絵画に詳しい方なら、「あなたは、無知だねぇ」と感じるかもしれません。「川端龍子」さんとは、「りゅうこ」ではなく「りゅうし」と読み、大正昭和時代に活躍した絵描きさんなんです。
いずれにしても、応保2年頃に制作された、奈良の旧中川寺十輪寺持仏堂所在という毘沙門天立像を、なぜ個人所有して、自宅に持仏堂に安置していたんだろう? とは思います。
■毘沙門天立像の中から発見された印仏
なぜ毘沙門天立像が、奈良県にかつてあった中川寺の子院・十輪寺の持仏堂にあったのかや、応保2年頃に制作されたものだというのが、分かったのかと言えば、下の写真のような紙切れ……「印仏」が像の中に入っていたからです。
いつもは立像の隣に、一緒に展示されることが多いのでしょう。ただし今回は、展示場所の問題で、立像と印仏が少し離れたところに展示されていました。それで、毘沙門天立像を見た後に、この印仏を見たのですが「あれ? 毘沙門天? さっきどっかで見たなぁ」くらいにしか思いませんでした……無知なもので……。
とにかく、この印仏の紙の裏面に、「毘沙門天立像が応保2年頃に制作されたこと、また奈良の旧中川寺十輪寺に伝来したこと」が記されていたそうです。
詳しくは、丸尾彰三郎さんという戦前の美術史の偉い方が、昭和八年一月十六日に『橋本氏蔵毘沙門天像に就いて』で記しています。
こうした印仏の白紙の裏面には「應保二年 壬午 三月七日 鬼宿日曜 供養了 千躰内」と記され、1枚の裏面には左の文に加えて「中川寺境内 十輪院法印觀門代 当院持佛堂安置」と記されているものもあったと記されています。
さらにもう一枚は……
『此毘沙門天阿弥陀如来二尊ハ往古十輪院之佛にて寺破損及當地を買地して田畑山林等買求當庵ニ寄附致置者也
元亀三年 壬申歳二月仏日
當時住人 権右衛門』
わたしの理解によれば……この紙も毘沙門天立像に入っていたと……。となると、この毘沙門天立像を、戦国時代の元亀三年に、一度は像の中を開けて、紙を入れたということ。で、此の頃には寺の損傷が激しかったので、近所の住人の権右衛門さんが、すでに一庵しかないほどに廃れていた中川寺の土地を買い取って、(どこに?)寄附したものですよと……。
なぜか、この件に関して丸尾彰三郎先生は、なにも触れていないんですよね……。
で、像の中には、白紙の印仏のほかに「絹本著色千體毘沙門天像」も数枚入っていたと記しています。それが、現在トーハクに展示されている、下の写真だと思われます。
丸尾彰三郎先生は、「千躰供養」という言葉に注目しています。昭和八年当時に現存していた、白紙や絹本に印されている毘沙門天像の総数は、507体だったそうです。先生は「最初は千体描かれていたんだろうけど、(戦国時代の)元亀の頃までに失ってしまったのかな」と記しています。また「絹本は元亀の頃に描かれて像内に入れられたもののようだけれど、白紙に描かれた毘沙門天像を補足するために入れたのかもな」と推測していますね。
■明治初期に破壊されてしまった「中川寺」
次に気になったのが、もともと毘沙門天立像が納められていたという中川寺についてです。旧中川寺というくらいなので、今はもうないのかもしれない……くらいのことはわたしでも想像できました。ただ、重要文化財に指定されるほどの仏像が、なぜ廃寺になるような寺にあったんだろう……そんな疑問が沸きました。
調べてみると、この中川寺は、かなり有名な廃寺でした。Wikipediaにも、しっかりと中川寺跡として解説されています。中川寺は本寺の成身院が、平安後期に活躍した実範という方が、天永3(1112)年に創建したそうです。京都大(日本建築史)の冨島義幸准教授は、「実範や中川寺成身院は、一般にはあまり知られていない。しかし、中世仏教の研究に携わる研究者ならば誰でも知っている、中世の仏教を語るうえで重要な僧・寺院である」と記しています(中外日報)。
どうやら、この実範さんは、学者肌だったようで、興福寺や醍醐寺、高野山、比叡山などで様々な教えを学びました。そして1112年に成身院(中川寺)を創建。晩年は浄土教に傾倒し。成身院を出て、山城国の光明寺にて亡くなったそうです(入寂)。
実範が創建した成身院(中川寺)は、その後、室町時代末期までの間に、毘沙門天立像のあった十輪院をはじめ九院一坊が整備されたそうです。ただし、その後は徐々に衰退していき、そろそろ戦国時代に突入していく文明13年には本堂を残して全焼。この火事が原因かは不明ですが、この頃から興福寺の、子分的な存在である末寺となり、江戸時代まで続きましたが、明治の頃にはほとんど破壊されてしまっていたされています。
現在の寺跡は木々に覆われてしまい、その遺構はほとんど残っていないようです。ただ、開祖の実範さんの御廟塔……御墓?……と伝わる五輪塔が残っています。現在の現地の様子については、下記のブログに詳細が記されています。
■戦前の日本画家の間で仏像ブームがあった?
さらにGoogle検索をしていくと、面白いツイートを見かけました。資料等の裏取りはしていませんが、「戦前の一時期に日本画家の間で、古美術を所蔵するのが流行したようです」とあります。確かに民藝運動の柳宗悦も、岩偶を持っていたし、けっこう文化財の取り扱いが今よりも緩かったんでしょうね。
それで、くだんの毘沙門天立像も、元は明治から大正に活躍した日本画家の橋本関雪さんが所有していたようです。そして橋本関雪さんから、同じく日本画家の川端龍子さんへ渡り、その川端龍子さんの娘の真理子さんが所蔵していたと。ただ、それも平成になってからトーハクに寄贈されたようです。
前述した丸尾彰三郎さんが、昭和八年一月十六日に著した『橋本氏蔵毘沙門天像に就いて』の「橋本氏」というのは、この橋本関雪さんの所有時代に書かれたということです。
それにしても、この像があった中川寺は、文明13年には本堂を残して全焼し、元亀三年には一庵しかなかったようです。さらに衰退して、明治の廃仏毀釈により完全に破壊された……にも関わらずですよね。そんな波乱を乗り越えて、この毘沙門天立像は残り続けたんだと考えると、非常に感慨深いものがありますね。
機会をみつけて、また見に行きたいと思います。
https://core.ac.uk/download/pdf/159513564.pdf