福島の猪苗代城へ
前回noteに続いて、週末に福島県の猪苗代と裏磐梯へ行った時の記録を遺しておこうと思います。
義父母に一緒に泊まりに行こうと誘われるままに、裏磐梯へ行ってきました。せっかく福島まで行くのだから、大学時代の旧友に会っておこうと思い、前乗りして猪苗代町に一泊しました。その友人が何度か行ったことがあるというコテージを予約しておいてくれて、わたしの家族と友人とで一泊する予定でした……が、当日になって息子が腹痛を訴えたため、急遽、わたしだけが先に猪苗代入りすることになりました。
出発がダダ遅れして、自宅を出たのが14:30前後になってしまいました。上野駅へ急いでいき、東北新幹線に飛び乗り、福島県の郡山駅についたのが15:45頃。16:15郡山駅発の磐越西線で、猪苗代駅に着いたのが時刻通りの16:53。ちょうど日没の時間だったようで、駅の連絡通路の上から見た磐梯山がきれいでした。
友人からは「今から向かうから、駅で少し待ってて」というメッセージがLINEで届いていました。駅を出ると、お店のような建物は色々とあるのですが、開いているのは一軒のお土産屋さんと観光案内所のみ。けっこうスッキリと何もないところで、好感が持てます。
電車から一緒に降りた数十人のうち、ほとんどの人たちは、駅前で待っていた周辺のホテルの送迎バスへ乗り込んでいきます。残ったのは、地元のバスを待つひと家族とわたしだけ。友人が車で迎えに来てくれなかったら、途方にくれていただろうなと思います。
数十年ぶりに会う友人は、外見はかなり変わりましたが、気持ち的にはついこないだにも会ったような気もするほど、変に気を使うこともなく……「さっそくだけど、土津神社へ連れて行ってほしい」と頼みました。「ええ? 明日行けばいいだろ」と言われましたが、わたしとしては保科正之公の墓所があるという同神社に、早く行っておきたかったのです。明日は何が起こるか分かりませんからね。
土津神社に着くと、ちょうどライトアップされていたので、紅葉を楽しもうと、地元の人たちなのか観光客の人たちなのかが殺到していて、大きくない駐車場が混んでいるほどでした。
そして思っていたよりも真っ暗だったため、わたしたちも紅葉を見て、参拝をして、(会津松平家の初代)保科正之公の墓までは行かずに、本日の宿へ行くことにしました。
妻や息子が来られなくなったので、友人と2人で泊まることになったコテージ……というのか? リビング・ダイニングのほかに6〜8畳の個室が3部屋あり、10人くらい泊まれそうでした。BBQができるベランダもあったりして……2人で泊まるのにはもったいない施設でしたが、仕方ない……。
友人は計画を立ててから移動するというちゃんとした性格なので、事前に、「猪苗代城だけは行きたいから、30分ほど時間をとっておいてほしい」と伝えておきました。「猪苗代城って……聞いたことないけど、何か残ってるの?」と言われましたが、わたしもネットで少し調べただけなので分かりません。ただ、こちらは会津藩の城。一国一城令が出た後も破却せずに幕末まで残った、全国でも珍しい城です(伊達の仙台藩にも白石城がありますけどね)。
猪苗代城の大手道(大手門…追手門ではないようです)の近くの駐車場へ車を停めると、けっこう立派な石垣が残っていて、ちょっと興奮してしまいました。すごいじゃん! 猪苗代城!
しかも駐車場の片隅……桝形虎口の近くには、やたらと大きくて、画像フィルターを使っても、こんなに真っ赤っ赤にはならないだろうというくらいに紅葉したカエデの巨木がありました。
立派な大手道の階段は……少し残念ではあるのですが、大正だか昭和の初めに、コンクリの階段へと整備されてしまっていました……。歩きやすい、登りやすいのですが、往古の面影が……。でも、コンクリで硬めてからも時が流れているうえに、秋の落ち葉で埋め尽くされていて、風情はありました。
最短距離で、城の中心の本丸へ上る道もありましたが、すぐにゴールしてしまうのが惜しい気がして、ぐるりと周囲を巡る道を進んで南帯郭へ出ました。それにしても、どこへ行っても紅葉が鮮やかで……歴史には全く興味のない友人も「いいねぇ〜、映えるねぇ。こんなところがあるなんて知らなかったよぉ」と喜んでいました。
猪苗代城は、戊辰戦争の時……1868年に焼失しました。正確には、会津の国境にある母成峠を西軍(官軍)に突破されて、城代が建物を焼いて会津若松へと引き揚げたのでした。母成峠に配置していた敗軍を猪苗代城に集めれば、ここでまた西軍を足止めできたかもしれないなぁとは思うものの、ここには戦備が整えられていなかったのかもしれません。城代は、土津神社に納められている藩祖の位牌を持たせて、猪苗代城と神社の拝殿と本殿を燃やして、会津若松城へと退却したのです。
そうして予想外の速さで進軍することになった、西軍の勢いを止めることができず、次の十六橋も同日に敗戦……西軍が勢いをそのままに会津若松になだれ込み、城下を焼き始めてしまいます。そんな城下の様子を飯盛山から見た、16歳から17歳で編成された白虎隊(のうち白虎士中二番隊)の16名が、自刃したのは有名な話ですね。
さて、南帯郭から本丸までの道の左右には、土塁がくっきりと残っています。本丸への坂道にはゴツゴツとした石が転がっているのですが、これらは当時の石垣か敷石なのでしょうか。
そして二の丸へ行くと、よく猪苗代城で遊んでいたという野口英世博士の胸像……というか首から上の銅像が立っていました。国立科学博物館の近くの林の中に全身像がありますが……わたしの中では誰もが知っている偉人なのですが、全国区ではどうなんですかね?
そして意外と長い時間を過ごしてしまった猪苗代城を、大手道を下って後にしました。
それにしても立派な城跡が残っているものだと感心して、興味が湧いたので、都内に戻ってから、いま図書館で、昭和56年2月10日に初版が印刷された『日本城郭大系 第3巻』の「亀ヶ城(猪苗代城)」のページを開いたら、ネットで調べても書かれていないようなことがたくさん書かれていて……さすがだなぁと思っているところです。
その本がまとめられた約40年前には「城の遺構としては、本丸・二の郭・帯郭・二の丸・三の丸・石垣・水堀・空堀・土塁などが残って」いたそうです。そしてさらに詳細が、下のように記されていました。
この『日本城郭大系 第3巻』に付属している城郭図を見て、初めて分かったのが、最初に車を停めた駐車場が二の丸であること(感覚的には三の丸でした)。そして、駐車場の北側に中門があり城代屋敷があったこと。また二の丸(駐車場)南側には、馬場のほか、(おそらく会津藩士の)横地さんと兼子さんの屋敷が構えられていたこと。
なお戊辰戦争時の城代は、高橋権太夫さん。城代には「1800石から350石の番頭・御旗奉行・物頭クラスの 家臣が任命」されていたそう(「1800石から350石」という表現の仕方が謎ですけどね……。ずいぶんと差がある)。
その二の丸(駐車場)の中門を出ると、そのまま東に向かって追手門(大手門)に続く道があり、現在は住宅街になっていますが、江戸時代にも左右には家臣の屋敷があり、そこが三の丸で、水堀で囲われていたようです(すごく立派な縄張り!)。その三の丸には、井深家や筒井家、狩野家などの10家の屋敷が配置されたほか、御普請奉行屋敷や組頭屋敷などがあるため、さらに追手門の外には中級・下級の家臣団(中士・下士)が住んでいたのでしょう。
先ほどの駐車場……三の丸に戻って、虎口の門を大手道へ登っていくと、本丸をぐるりと囲う二の郭に出ます。その二の郭にも大小の門や番小屋があり、その外側の紅葉が見ごろだった帯郭には火薬庫もあったようです。
野口英世の銅像があった場所は二の郭の一部で、土蔵がありました。その目の前に、本丸へ入るための黒門があります。黒門をくぐって左側には、茶室や庭園があったようなので、ここは会津藩の藩主が、土津神社の藩祖墓所へ行く際には立ち寄ったのかもしれません。また本丸北側には塩蔵と土蔵があるので、いちおう籠城する用意も考えられていたのでしょうね。
南北(写真上下)を走る太い線が江戸時代当時からの幹線道路です。空からの写真では消えかかっていますが、猪苗代城の大手道から、この幹線道路に向かって東に一本の道が伸びています。おそらくこの道を、当時は大手道と呼んでいたのではないでしょうか。そして(仮)大手道と幹線道路とが交わる場所に追手門(大手門)があったということ。
南には猪苗代湖があり、会津若松へ向かう道……細くて険しいけど郡山に向かう道へと繋がっていた。幹線道路を北へ進むと、そのまま東へと向かい、福島や仙台へと繋がる。そして二の丸前を南北……主に北に伸びる道は、藩祖を祀る土津神社へ。色んな意味で要衝と言える場所に、猪苗代城……亀ヶ城があったことが分かりますね。
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